天化と少女
金鰲島が崑崙山に向けて進軍を始めた。消息不明だった聞仲がとうとう動き出したのだ。最早停戦を呼び掛ける段階ではなくなってしまった。
太公望は言った。人間界にいる道士も崑崙に戻り、攻撃体制をとらなければならない、と。
けれど。
「武成王一族は"全員"人間界に残ってもらうぞ!」
太公望の言葉は天化にとって思いもよらぬものだった。
「スース!こんな時に俺っちだけ……」
しかし食い下がろうとした天化を止めたのは、名前の手だった。
「天化くん、」呼び掛けと自分の腕を引く力に促され、天化は黄飛虎たちから離れた。
「どうかしたさ?」
少女の行動。それは人目を憚るもので、だからこそ天化も身を屈め、声を落とした。
その耳に唇を寄せ、名前はいつになく真剣な眼差しで囁いた。
「天化くんにはお義父さまと一緒にいてほしいの。……何があるかわからないから」
天化の父、黄飛虎は天然道士である。確かに彼は強い。並みの妖怪仙人では太刀打ちできないほどに。
だが、今回はーー今回の戦争は、次元が違う。宝貝がなければ戦いにもならない。そういう相手なのだ。
しかも黄飛虎は聞仲の友だ。今は敵味方にわかれたとはいえ、培った情は簡単に捨てられるものではない。
ーーきっと、黄飛虎に聞仲は倒せない。
だからこそ、彼は、彼らは連れていけない。
でも人間界に放っておくこともまた難しかった。
「何が起きるかわからないわ。だって武成王は聞仲さまとあまりに親しかったもの。利用しようとする者もいるかもしれないし。それにーー」
「それに?」
「……これは天化くんの方が余程詳しいと思うのだけど」
名前はそっと視線を走らせた。その先にいるのは武成王。彼の顔には複雑なものが浮かんでいた。
「お義父さまが人間界で大人しくしていられると思う?」
「……や、無理だな」
父のことだから天化にはわかる。
黄飛虎と聞仲。彼らの繋がりは他にはないものだ。他にはないほどに、強い。
だからきっと父は戦いに赴く。友を止める。そのために。
天化が断言すると、名前の顔は曇った。
「でしょう?なのに周りに仙道がひとりもいないっていうのは心許なくて」
彼女の懸念もまた天化にはよくわかる。人間が仙道と戦うことの難しさ。いくら武成王が聞仲との相対を望もうと、人である彼が聞仲の元まで辿り着くのは困難なことだ。
「……わかった。俺っちもこっちに残るさ」
天化は少し考えーー考えるまでもないか、と頷いた。
完全に納得したわけではない。けれど、彼女の言うことは尤もだった。
天化の言葉に、名前は分かりやすく安堵を示した。よかった、と。彼女にとっては天化の父でしかない武成王だというのに、名前は彼の身を心底案じていた。
それがおかしくてーー嬉しくて、天化は笑った。
「そりゃあ俺っちだってそっちに行きたいけどな」
「……うん、」
「けど俺っちにしかできねぇこともある。……だろ?」
天化は名前の頭に手を伸ばした。
それは意識したものではない。自然と、天化は彼女の頭を撫でていた。かつては剣を交えた相手だというのに。彼女の強さを理解しているのに。
「……死ぬなよ、名前」
なのに、天化は口にしていた。彼女の身を案じる言葉を。
ーー自然と、口にしていた。
「……天化くんも」
死んじゃ嫌よ、と名前は音もなく言った。
少女の瞳にある翳り。それは知っている者の目だった。大切なものを亡くす痛みを知る瞳だった。
天化は楊ゼンから聞いた話を思い出していた。彼女が黄家と同じ、王家に仕える家柄であったこと。彼女の遠い血族が、紂王を諌めたことで処刑されたことを。
思い出し、少女の小さな体を抱き締めた。
「天化くん!?」
慌てふためく声が上がる。天化のすぐ傍で。いつもは悠然としている彼女が、天化の一挙手一投足に振り回されていた。
その声が心地いいと思うようになったのはいつからだろう。彼女が隣にいるのが当たり前になったのは、いつからだろう。
「けど、あーたと離れんのはちと寂しいさ」
らしくないなと思う。こんなことを言うのも。彼女の額に自分のそれを重ねるのも。何もかもが自分らしくないのに、それを自然なことと感じている。それもまた天化の顔に笑みを宿させた。
名前の見開かれた目に映る顔。眉を下げて笑う自分。その像が揺らぎ、閉ざされる。
「やっぱりやだ!離れたくない!私も残る!!」
「何を言っているのだおぬしは!」
天化の肩に顔を埋め、駄々をこねる少女。そこにすかさず太公望から突っ込みが入る。
彼は二人から離れたところにいたのに、名前の叫びには耳ざとく食いついた。
「いつもの殺る気はどうした!このままでは崑崙が、ひいては天化の身だって危ないのだぞ!!」
「わかってるわよ!でもやなの!!天化くんと離れたくない!!」
「ならばさっさと金鰲を落とせばよかろう!」
「……それもそうね」
天化の腕の中から反論していた少女はしかし、太公望のその言葉にぴたりと動きを止めた。
それもそうね、そうよ、その通りだわ。ぶつぶつと呟き、彼女は顔を上げた。
「私、頑張るわ!天化くんとの未来のために!!」
「お、おお……」
名前は宣言し、天化から体を離した。そのまま駆け出し、「待っててね!」と天化に手を振ってくる。まったくもって忙しない。
しかし気落ちしているよりはずっといい。金色の眩い髪を靡かせ、笑っている方が。ずっと彼女らしく、ずっと好ましい。
「ほだされる、って言うのかね……」
天化はひとりごちた。
まんまと嵌まってしまった。けれど。
悪くない気分だった。