Lavender's blue


 あれほどの高さから落ちたというのに入院の必要なしと判断されたのは、降谷零にとって幸運であり、名前にとっては不運なことであった。なにせ、彼を縛りつける口実がなくなってしまったのだから。

「あり得ないわ」

 そう、まったくあり得ないことに、零ときたらあの事件のあとも休みを取ることがなかった。
 ーー後始末をしなきゃならない。
 それは仕方のないことだと名前も理解している。が、さすがに働きづめなのは許容できなかった。

「だからこうして休みを取ったじゃないか」

「私が言うまで今日も働くつもりだったくせに?」

「手厳しいなぁ」

 笑う彼を睨み据えながらも、名前は包帯を巻き終えた。
 無人探査機<はくちょう>の波乱に満ちた帰還が終わり、世間はゴールデンウィークを迎えていた。外に出れば多くの家族連れを見かけることができたろう。それはこの国の日常が守られたことを意味していたが、しかし名前は零を家から決して出そうとはしなかった。
 降谷零があの事件以降では初めてとなる丸一日の休みを得たのだ。なんとしても安静に。怪我の回復だけを第一に考えなければならなかった。
 だというのに彼は朝から早起きすると、名前が起きる前に食事の準備を終えていた。名前だってそれを予期していつもより早めに起きたというのに。
 だからもう今日は彼から目を離すことができなかった。名前が監視していないと彼は自主的に仕事を見つけてきてしまうのだから。
 しかし彼はまったく悪びれる様子がない。名前は剣呑な顔をしているというのに。気にすることなく笑うと、名前の頭を撫でた。

「ありがとう」

 包帯、と左腕を視線で指し示す。その怪我は名前たちを庇ってできたものだ。あの日、ただ落ちるしかなかった名前と少年を、その身を挺して守り抜いた彼。ガラスに裂かれた傷は深く、幾重にも傷を残していた。彼の、その美しい体に。

「ーーどうして、私まで庇ったりしたの」

 名前は目を伏せ、俯いた。
 そうすると自身のちっぽけな手が視界に入る。膝の上で握り締められた小さな手。それは彼を守るにはあまりに力がなかった。それを、先の事件で痛感させられた。
 あの時、守られるべきは少年だけだった。協力者である彼さえ無事ならばよかった。ーー名前の身の安全など、あの瞬間問われてはいなかった。
 なのに、降谷零は庇った。少年を抱き締めた名前ごと。彼がそうしなくたって、少年の体は守られていただろうに。それなのに彼はその手を伸ばした。ーーそれなのに名前はその手を掴んでしまった。
 自己嫌悪。それがこの数日、事後処理に追われる彼と離れて過ごしていた名前の頭を占めていた。
 なぜあの時彼の手を掴んでしまったのか。そうしなければ彼の傷はもっと軽かったろうに。
 その考えは、あの夜少年と別れ、零を支えながら帰路についた時からこびりついて離れなかった。
 己を責め立てる声。それだけならば耐えられる。けれど、血を流す彼が夜毎夢に現れるのだけは、どうしようもなく名前を苛んだ。

「……ごめんなさい、あなたが悪いわけじゃないのに」

 けれど言ってから、これは彼を困らせるだけだと自省した。
 せっかくの休みだというのに詰られては彼も気分が悪かろう。だから名前は「忘れて」と言おうとした。不格好ながら笑みを形作ろうとした。

「……名前、」

 なのに、それは他でもない彼の手で阻まれた。
 その手に両頬を包まれ、持ち上げられる。名前にはもう身動きがとれない。逃げることも、頭を下げることも。
 名前はおとなしく射竦められた。彼の美しく澄んだ目に。今日の青空よりずっと深い蒼色に。

「ねぇ、名前。君は覚えてる?僕が言ったこと」

「……あなたの言ったことなら一言一句覚えてる、けど」

 その言葉だけじゃ何を指しているのかわからない。当然だ。名前に彼の思考を見透かすことなどできやしないのだから。
 とはいえ素直にわからないと答えるのも許せず、名前は目をそらした。
 そんな名前にも彼は怒ることなくーーむしろ目許を緩めてーー答えを与えた。

「言ったろう?最後まで協力者を守る、それが公安だって」

「それくらい覚えてるわ。だから私は、」

 反論しかけ、ハッとする。
 覚えている。確かに、彼の言ったこと、彼の与えてくれたもの。すべてが名前のなかにある。彼がそう言ったのも、名前を協力者と認めてくれたのも。全部、覚えていた。
 名前の表情の変化に、零は笑みを深める。そうして、柔らかな拘束に囚われる名前に顔を近づけた。
 ほんの数センチ。鼻先が触れ、額が重なる。そんな距離で、彼は名前に囁きかける。

「名前、君はただ守られるだけの恋人じゃない。けれどだからといって傷つく君を見過ごせるわけもないんだ」

 それは子供に言い聞かせるような語調で。それは大人の甘い睦言のような声色で。

「僕は君を守る。君が僕を守ろうとするように。最後まで、いやーーその後も、ずっと」

 降谷零は真剣な眼差しで名前を見つめた。
 その言葉の持つ響きは、神への誓いのようだった。それほどまでに真っ直ぐで、名前は目を奪われた。
 名前は口を開こうとした。何を言えばいいか決められないまま。だから彼の名を呼ぼうとした。零、と。
 けれどそれは彼が拘束を解いたことで、膝に乗せられたままの名前の手がとられたことで。
 ーーその指先に感じる吐息に、溶かされた。

「だから諦めて。諦めて、僕にも守らせて」

 唇が落とされたのは一瞬。
 恭しく名前の手をとった彼は、おとぎ話のなかの王子さまのようだった。金の髪に蒼い瞳。傅く姿は絵になりすぎていて、名前は目眩がした。日差しすら彼を彩る道具にしかならず、彼の前では名前の座るソファすら玉座に変わってしまうのだ。

「……私、死んだっていいと思ってたの」

「うん、」

「私がしてきたことは許されるものじゃないわ。だからあなたのために死のうって、そうするのが一番の幸せだって、思ってたの」

「……うん、」

「なのに、」

 名前の声に涙が滲む。
 悲しいわけじゃない。ただ、彼があまりに優しくて温かくてーー痛かった。

「……そんなこと言われちゃ、欲張りになるわ」

 名前の幸せは決まっていた。それは名前自身で決めたもので、それ以上の幸福はないと思っていた。ーーそれ以上の幸福は、望んではいけないと思っていた。
 なのに、彼はそれさえ容易く打ち砕く。打ち砕いて、名前を引っ張り出してしまう。遠く、果てしない未来へと。
 彼は名前を抱き寄せ、ゆっくりとその頭を撫でた。

「むしろもっと我が儘になってもらいたいところだけど」

 なんて、冗談っぽく笑いながら。
 名前は自身が十分すぎるほどに与えられていると思いながら、けれど彼が望むのならと頭を巡らせた。
 我が儘。それも、あまり迷惑のかからないもの。
 ーー今の名前に思いつくのなんて、ひとつしかない。

「……零にも、協力者がいるのよね」

「うん?」

 唐突ともいえる言葉に、零は体を離した。
 だが名前が質問を変える気がないと認めると、「それは企業秘密だよ」と笑いながら、けれど否定はしなかった。
 それは、肯定と道義だ。
 とはいえ名前にそのあたりの込み入った話に突っ込むつもりはない。降谷零が誰を従えていようが、名前はその誰よりも彼の役に立つよう励むだけだ。

「ねぇ、私は何番目?」

 だから名前は橘境子と似たようなことを訊ねた。いつから自分は彼の協力者になったのか。ーーいつから、彼の盤上に上がっていたのか。
 ただ名前が彼女と違っているのは、それがいつからであろうとーー最初から仕組まれたものであろうと、彼の元から去る気はないという点だ。なので聞く意味はないが、しかし自分にも番号が振られているのならそれくらいは知っておきたかった。
 零は驚いたように目を丸くした。しかしすぐに柔和な笑みを浮かべると、名前の頬に触れた。

「それは名前自身が一番よく知っているはずだよ」

 首を傾げる名前に、彼は歌うように告げる。

「ノーリーーゼロ。君は、ゼロだ。……僕と同じ」

 それは名前の求めていた答えではなかった。

「……なんだかはぐらかされたような気もするけど」

 そう、名前は口を尖らせた。が、緩む頬は抑えきれない。

「でもいいわ。嬉しいから」

 同じ、というのには違和感がある。名前にとってやはり彼は特別で、それはもう太陽が東から昇るのと同じように当たり前のことであったのだから。
 けれど彼がそう言ったのだ。そう、望んでくれたのだ。ならば名前は応えなくてはならない。

「じゃあ今度は私にあなたを守らせてね」

 お返し。と、今度は名前が彼の手に口づける。神聖な儀式のように、畏まって。
 そうしてから顔を上げると、呆気にとられた様子の目とぶつかった。珍しいこともあるものだ。思わず名前が笑うと、彼は悔しそうに眉根を寄せた。

「……やられた」

 その少年のような表情もまた珍しいものでーー名前は自分が我が儘になっていくのを自覚した。
 ーー叶うなら、彼のすべての顔が見たい。
 そして、最後には笑ってくれるとなおいい。
 そう思いながら、名前は自身の笑みにつられて表情を緩める彼を見つめた。