How many miles is it to Babylon?


 カジノタワー周辺は人で溢れ返っていた。警察官が必死に避難誘導しているが、パニック状態の人々を落ち着かせるのは極めて困難なことであった。
 それとは対照的に、目的地であるビルは静寂に支配され、夜闇にひっそりと佇んでいる。
 零は車を止めることなくビルのなかまで乗り込んでいった。そして資材運搬用のエレベーターまで突き進む。
 エレベーターは静かな音を立てながらゆっくり上昇していった。
 そうしていると降り注ぐ危機など存在しないかのようだった。それほどに静かで、世間から隔絶されていた。
 けれどそれは「間に合うのか?」という降谷零の固い声に打ち破られる。そんなものは都合のいい妄想であると。
 問われた少年はNAZUのデータ、それからカジノタワーの詳細を携帯で開きながら答える。

「このビルの高さと、カジノタワーまでの距離を考えると……あと一分後にここから加速できれば……」

 言い終え、少年は携帯の画面を押す。始めるカウントダウン。生と死が目前に迫っていた。
 祈るように少年は呟く。蘭、と。
 小学生とは思えないほどに熱く、深い想い。名前は少年に、まだ見ぬ工藤新一の姿を被らせた。
 零はといえば、そんな少年に笑みかける。

「愛の力は偉大だな」

 そう言って。
 唐突に思える言葉に、少年は思わずといった風に「え?」と声を漏らした。虚をつかれた顔。そのせいで、名前にまで笑みが移る。

「あなたには似合わないセリフね」

「そう?」

「ええ。でも……とてもあなたらしいわ」

 小首を傾げる彼に、名前は笑みを深める。
 降谷零を知る少年には思いもがけない言葉だったかもしれない。公安警察としての彼は少年に対して殊更に冷徹な面を見せていたのだから。個より全。人より国。それは少年にとってひどく冷たく映っただろう。
 けれど、降谷零の本質は愛に満ちている。国を、人を、彼は愛している。愛していなければーー降谷零がこう在ることはなかったろう。
 だからこそ彼は気高く、尊く、美しいのだ。
 そう話している間にも時間は流れ、車はビルの最上階で停まった。
 聞こえるのはRX-7のエンジン音のみ。ヘッドライトの光だけが行く手を照らしていた。
 少年はメガネを弄りながら、

「前から聞きたかったんだけど……ふたりは恋人同士なの?」

 と、先刻の発言を受けたかのような質問をした。
 少年の真意は見えない。けれど名前は少し考え、「……それは違うと思う」と静かに首を振った。
 恋人。彼女。そういう単語は名前には相応しくない。相応しいのは蘭や園子といったーー守られるべき少女たちだと思ったからだ。
 だから名前は恋人だとかそういうのではなくーーただ、彼の隣に並び立てればそれでよかった。彼に頼られ、背中を預けられる。そんな存在に焦がれた。
 零も、「名前は黙って守られるなんてことできないからね」と笑った。それは呆れや侮蔑といったものを含まないーーとても温かで、甘やかな声色をしていた。

「……だから、」

 零は照れくさそうに鼻の下を擦ると、言葉を続けた。右手をハンドルに。左手をギアに。とても優しく、柔らかく、庇護するように包み込んだ。

「僕の恋人は……この国さ」

 この言葉に、少年が何を思ったのか。何を感じたのか。名前には知るよしもない。
 けれど少年はどこか納得したような目で彼を見て、それから、「行くよ、安室さん!」と声をかけた。

「一ミリでもいい。ずらせるか?」

「そのつもりさ」

 この作戦は賭けだ。生か死か。それには大きな運が絡んでいる。
 だが少年の声は自信に満ち溢れていた。
 そうすることで己を鼓舞していたのかもしれない。けれど名前には失敗する未来が見えなかった。絶対に守りきってみせる。ーー彼となら。

「五、四、三、二、一……」

 少年の刻むカウントダウン。タイヤが地面を擦る音。張り詰める緊張感のなか、零は唇を舐めた。

「ゼローーー!!」

 瞬間、駆け出す車。法律も何もないスピードではあったけれど、それでもまだダメらしい。
 「高さが足りない!」少年の焦りに、零は頼もしく答える。

「上等だ!」

 ぐんぐんと上がるスピード。抑えることなく右に曲がると、木材が車内に雪崩れ込む。それを片手で防ぎ、名前は少年の身を守った。
 けれど障害はそれだけじゃない。
 ボンネットから上がる炎。火の粉はすぐ近くで弾け、視界を朱に染めた。
 それでも零は怯まない。スピードを上げ、ぐるりとフロアを曲がり、最初の地点ーーその付近にあった階段まで向かっていく。一分の迷いもなく。
 その間に少年は準備を進める。靴に仕込まれたダイヤルを回し、シートベルトを手首に巻きつけて命綱とした。
 そして。
 一瞬のうちに階段を駆け上がるRX-7。車体は勢いそのままに壁を突き破ると、空へと飛んだ。

「いっけえええええええーーー!!」

 爆発音をものともせず、少年の足がサッカーボールを蹴る。それは流星のように夜空を駆けた。ーー弾丸のように落ちるカプセルへと。
 反動から落ちていく少年の腕を掴みながら、名前は虹色の花火が夜空に咲くのを見た。それはまるで世界の祝福のようだった。
 だから名前は墜落する少年の体を迷わず抱き止めることができた。
 体を裂く空気。迫る炎。足許に広がる途方もない闇夜。それらから少年を庇いながら、名前もまた落ちていった。
 名前の頭にあったのは降谷零の言葉だった。
 ーー最後まで協力者を守れ。
 ただそれだけを考えていた。それさえ叶うならば自身がどうなろうと構わなかった。ただ少年と彼さえ無事ならば。

「ーー名前ッ!」

 だから、彼の呼び掛けに顔を上げちゃいけなかった。彼の差し出す手なんて掴んじゃいけなかった。彼の腕に抱き寄せられちゃーーその力強さに、温もりに、安堵なんてしてはいけなかったのだ。
 なのに名前は応えてしまった。無意識のうちに彼を求めてしまった。
 その腕のなかで、名前は鋭い銃声を聞いた。一発、二発、三発ーー全弾を国際会議場のガラスに撃つと、ヒビの入ったそのなかへと飛び込んだ。

「ぐっ!」

 呻き声。それから、弧を描いて飛び散る鮮血。その赤色に名前は目を見開く。
 なのに、こんな時なのに、零は名前に笑いかけた。落ちていくなか、彼は名前を安心させるように笑ったのだ。
 それになぜだか泣きたくなって、名前は彼の背を抱き締めた。絶対に離れないように。たとえ暗闇のなかであろうと、はぐれることのないように。