ゼロと狼の過去


 降谷零には幼馴染みがいた。零と同じく、公安警察としてとある組織に潜入していた、幼馴染みが。
 けれど、彼は。

「裏切りには制裁をもって答える……だったよな?」

 広がる闇夜。ぬらぬらと光る血。鼻につく鉄錆の臭い。
 零は縺れる足で駆けた。たった数メートル。屋上の入り口から彼の座り込むところまで。ほんの少しの距離がいやに遠く感じられた。

「くそっ!」

 けれど現実は揺るがない。零が彼の胸に耳を当ててもなんの音も聞こえてこなかった。
 彼は、その心臓を自らの手で撃ち抜いていた。組織に正体を知られた彼は、仲間を守るために死を選択したのだ。
 拳銃を手にした黒ずくめの男、ライは自分が撃ち殺したかのような発言をしていた。が、零にはわかっていた。スコッチと呼ばれた彼が取る行動なんて。幼馴染みの男がどれほど仲間思いだったかなんて。
 いやというほど、知っていた。

「……かれ、死んでるの」

 手柄を立てるためにだろうか。嘘を吐く男を睨んだ時だった。
 新たな声が、屋上に響いた。
 それはこんな夜更けには相応しくない少女の声だった。少女の、清純さすら感じられる声。けれど聞き覚えのあるものに、零もライも一斉に振り返る。
 果たしてそこには思い浮かべた通りの少女が立っていた。名前と名付けられた少女が、ひとり。名付け親の遺体を、感情の見えない目で見つめていた。

「あぁ、死んでるよ。拳銃で心臓をブチ抜いてやったからな……」

 零は咄嗟に答えられなかった。そのせいでライに先制を許してしまった。人の怒りを煽るような、男の死を嘲るような響き。それを聞かせてしまったーースコッチを慕っていた少女に。
 けれど名前は意外にも大きな反応を示さなかった。
 ただ静かに「そう」と僅かに顎を引いて、それから歩を進めた。男の亡骸へと。

「スコッチ、死んじゃったのね」

 名前は膝をついた。躊躇うことなく。膝をつき、零がやったように彼の胸に頬を寄せた。しかし零とは違い、心音の有無を確かめているようではない。ただ寄り添っている、それだけだった。

「聞いてないのか?そいつは日本の公安の犬だぞ……」

 男の亡骸に寄り添う少女。それは神聖さすら感じる、清らかな空気を纏っていた。なのにライという男は無遠慮に踏み荒らす。
 心底「わからない」といった風で、ライは名前を見た。彼女の行動が理解できないと。その目は如実に語っていた。
 零は思わず「おい」と非難の声を上げていた。水を差すなと。少女がまだ子どもといっていい歳で、なおかつ慕っていた男が目の前で死んでいるのだから、と。
 けれどライは「だからどうだというんだ?」と冷ややかに言い放つ。組織の人間らしい、血の気の通わぬ声で。
 しかし名前が激昂することはなかった。

「名前……?」

 少女は、泣いていた。はらはらと、静かに。圧し殺した風ではない。けれど嗚咽をこぼすこともなく、ただ涙だけを流していた。
 まるで、泣けない降谷零の分まで泣いてくれているようだ。
 そんな感傷的な考えが零のなかに意図せず浮かんだ。そうしてしまうほどに少女の涙は無垢で、美しいとすら思った。
 名前は泣きながら顔を上げた。黒衣の男を見上げて、口を開く。

「好きな人が死んだら悲しいわ」

 少女の答えはそれ故に単純明快で、無邪気なものだった。好きな人が死んだから泣いている。それだけなのだと、少女は言っていた。

「……だが裏切り者だ」

「あなたは好きな人が裏切り者だったら嫌いになるの?」

 ライの低い声にも名前は動じない。むしろ不思議そうに訊ね返す。
 彼女にとっては裏切りなどどうだってよいのだということが、その汚れのない目から伝わってきた。彼女はただスコッチが好きで、彼の死を心底悼んでいる。それだけだった。

「…………」

 だからライもそれ以上の反論をしなかった。
 呆れたように鼻を鳴らし、「気分が悪い」と言い残して去っていく。
 階段を降りる甲高い音が鳴りやまぬうちに、少女はまた男の亡骸へと身を寄せた。そうしたって温もりが移りはしないのに。
 なのに少女は「あなたはいいの?」と今度は零を見た。

「きっとすぐに掃除屋が来るわ」

「なんで、僕が」

 まさか降谷零の存在に気づいているのかーー?
 動揺する心を隠し、零はいつものように笑顔を浮かべた。この夜には相応しくない笑みを。
 けれど名前はそれすら引き剥がす。

「だって、あなたもスコッチを好きだったでしょう?」

 少女はあまりに無垢だった。スコッチから教わるまで感情というものに興味を持たなかった少女にとって、世界は好きか嫌いかの二択だった。そしてそれ故に核心を突いていた。
 ーー彼は、降谷零の幼馴染みだった。かけがえのない、大切な友だった。

「……あぁ、嫌いじゃなかったよ」

 けれど降谷零は大人だった。守るべきものがある、少女からすれば面倒な大人だった。
 だから、零には泣くことができない。幼馴染みの死を悼むことすら。
 ーーでも、救いはある。

「なら、私と同じね」

 スコッチは裏切り者だ。そしてスコッチとして死んだ彼に帰る家はない。きっと墓すら立てられはしないだろう。
 それでもその死を悼む人がいる。悼んで、泣いてくれる人がいる。それは降谷零にとっても、幼馴染みの彼にとっても救いとしか言いようがなかった。

 この時から降谷零は決めていた。
 彼女ーー名前を協力者とすることを。