ゼロと狼の選択
あの日、あの瞬間。名前があの屋上に現れたのは何も偶然なんかじゃない。彼女もまた、スコッチと呼ばれた男から最後のメッセージを受け取っていたのだ。降谷零と同じように。
「嫌な予感がしたから匂いを追ってきたの」
名前も知らない男たちにスコッチの体が運び出された後。どこか気が抜けた様子の名前が気にかかり、零は彼女の家にまで付き添っていた。ーーらしくもなく。
ブロードウェイから一本入ったところにある共同住宅の一室。それが名前の家だった。名前の家で、近頃ではスコッチが入り浸っていた場所。彼がこの古ぼけた部屋を気に入っていたのだということは足を踏み入れてすぐに気づいた。
名前の家には、そこかしこに彼の気配が残っていた。日本人作家の本には栞が挟まれ、日本の茶葉が入った袋は開封済みだった。
それだけで零は察した。彼は名前を信頼していたのだと。だからこそ名前にも最後のメッセージを送ったのだと。ーー組織を暴く、協力者とするために。
「……彼は、自殺したんだ」
部屋に唯一置かれた緑。観葉植物をぼんやりと眺める名前の前に、零はお茶を出した。彼が好んでいたであろうその気配に、名前は視線を落とす。それからその目はゆっくりと零を映し出した。
「……自殺?でも、ライは」
「あんなのはでまかせだ。……彼は、自分で引き金を引いたんだ」
訝しむ名前に、零はきっぱりと断言する。彼女には真実を知る権利がある。
ーーいや、知っておいてほしいと零は思った。
思って、しまったのだ。
「……そう」
名前はまた目を伏せた。ゆらゆらと揺れる水面に映る少女の顔は、そのまま彼女の心情を表しているようだった。
しかし彼女はもう涙を見せなかった。どころか、次に顔を上げた時には、口許に仄かな微笑さえ浮かべてみせた。
「……その方が、彼らしい気がする」
「"彼"のことなんか、私はなんにも知らないけど」……そう名前は言うが、きっと彼女は彼の本質を察していたのだろう。なにせ彼女は狼の中でもいっとう優秀なのだから。
名前は湯気の立つカップに口をつけた。
「美味しいわ。……彼が淹れたのより、ちょっとだけ」
名前の微笑みはひどく頼りなげであった。朝焼けの白に染まった少女には、ともすれば消えてしまいそうな儚さがあった。
だから零は彼女の手を握った。慰めの言葉はない。ただ黙って、彼女が彼にしたように寄り添った。
名前がバーボンの変化を指摘することはなかった。零も彼女とスコッチのことを深くは聞かなかった。彼女が最後に受け取ったものがなんであったのか。それは名前と彼だけのものであるべきだろう。そう、らしくもなく思った。
それから数年。その間にも色々なことが起こった。中でも一番大きなことと言えばライがFBI捜査官であったこと、それを組織に知られ、逃亡しーーそして、ジンの策に嵌まり死んだことだ。
そう、あのいけ好かない男は死んだ。ジンの監視の下、殺された。誰もがそう信じている。受け入れている。
だが零はあの男がーー赤井秀一が生きているように思えてならなかった。誰よりあの男の能力を評価しているからこそ、簡単に殺されてみせたのがかえって疑わしかった。
だから。
「名前、君には僕と一緒に日本に来てもらいたい」
零は数年前と同じように、名前の家を訪れていた。
あれから。スコッチがいなくなり、物寂しくなった部屋に、彼の代わりとばかりに零は足繁く通っていた。それは何も彼女に同情したからではない。彼女に協力者としての適性があるかどうかを見極めるためだ。
そしてその結論として、零は彼女に切り出した。日本に来て、捜査を手伝ってもらいたい、と。
組織から逃亡した研究者、シェリー。彼女を捜索するために、バーボンはある探偵に探りを入れることにした。そのついでに赤井秀一が本当に死んだのかを確かめたって、組織から文句はないだろう。なにせバーボンの探り屋としての力を組織は評価しているのだから。
「……あなたがいれば私の出番なんてないと思うけど」
だから名前の言葉は正しい。そう、赤井秀一の生死を確かめるだけなら彼女がいなくたって問題はない。降谷零ひとりで事足りる。
けれど、目的はそれだけじゃないのだ。
「名前に話さなくちゃならないことがある。……彼のことで」
零は声を落とした。落とし、それでもなお名前は口にしなかった。彼、とだけ。
それでも名前には伝わった。彼女はお茶を運ぶ手を止め、零を真っ直ぐ見た。
薄緑の水面はこの日もゆらゆらと揺れていた。けれど彼女の顔に躊躇いはなかった。戸惑いも、また。
「……わかった。行くわ、あなたと」
降谷零はすべてを語らなかった。それを語るにこの場所は相応しくなかったから。
けれど彼女は何かを察した。察して、その上で覚悟を決めていた。無垢で、清らかで、けれど強靭な目が零を射抜いた。
ーーやはり、直感は正しかった。
バーボンは彼女に打ち明けるつもりだった。降谷零という名も、その身分も。打ち明けた上でなければ、真の協力者とは呼べない。そしてその協力者に名前は相応しいと判断した。この数年、同じ時を過ごすことで。ーー同じ男を、思うことで。
「……私を、連れていって」
名前は手を差し出した。あの日とは反対に、彼女の方から。
「ーーあぁ、」
降谷零は応えた。彼女の手を取り、共に歩む道を。
ふたりはこの日、大きな選択をしたのだった。