ゼロと狼の朝食


 空が白み、鳥の鳴き声が聞こえ出す頃、降谷零の隣で身動く気配がした。

「名前……?」

 薄らと開いた視界。すぐ横でプラチナブロンドの長い髪が揺れている。呟きに、白のルームワンピースが震えた。

「ごめんなさい、起こしちゃった?」

「いや……」

 覗き込んできた名前の眉は下がり、ひどく申し訳なさそうだ。そのせいで咄嗟に否定してしまったが、掠れた声は起きぬけであることを隠しきれない。
 だから零は「気にするな」と緩く微笑んだ。少女の真白い指先に口づけて。

「名前こそどうしたんだい?えらく早起きじゃないか……」

 一瞥した時計の針は彼女がいつも起きる時間よりも一時間ほど前を指している。

「今日は特に用事はなかったはず……だよね?」

「ええ、でも目が覚めちゃったから……」

 苦笑する名前の顔は何度か見たことがある。たとえば……そう、彼女が悪夢に魘された後だとか。

「……悪い夢でも見た?」

 手を伸ばし、少女の頬を撫でる。早朝の冷たさを孕んだ肌。その冷ややかさはかつての彼女自身のようであったけれど、以前とは違い、名前はそっと微笑を浮かべ小さく首を振った。

「そういうのじゃないの。……本当よ?」

「……ならいいけど」

 嘘は言っていない。そう、零にはわかる。けれど彼女が時折苦しげな様子で目を覚ますことがあるのは事実だった。そのことで、降谷零が責任を感じているのも。
 公安警察の協力者となった名前。それはつまり彼女が組織の狼からただの人に変わるのと道義だった。
 そうすることで得られたものもある。豊かな感情やほんの少しの自由といった幾つかのものが。
 そしてその中には罪悪感や良心の呵責といったものも含まれていた。
 狼だった名前ならば組織の汚れ仕事も割り切ることができた。善も悪も、彼女にはなかった。
 ーーけれど。

「少し、外に出てくるわ」

 気分転換に、と少女は笑う。それが強がりだということも零にはわかった。
 自分にもーー公安警察としての降谷零にも、任務を遂行する上で生じる痛みに覚えがあったから。

「……わかったよ」

 だからこそ、零は引き留めることをしなかった。
 代わりに、少女の小さな体を抱き締め、囁く。

「でも朝食までには帰っておいで。今日は腕によりをかけて作るから……」

「……うん、」

 名前が確かに頷いたのを見届けてから、手を離した。

 MAISON MOKUBAーー安室透の借りるアパートは二人暮らしには少々手狭だ。
 けれどキッチンは広いし、何より名前が満足しているようだから降谷零としても不満はない。
 そのキッチンで、先刻外に出たばかりの少女のことを思いながら、零は朝食の準備を進めていく。
 日本の朝食に欠かせない味噌汁。それは作り置きした出汁から作る。昆布と鰹節からなる出汁は、休日に一週間分纏めて取ってあった。それに今日は玉ねぎと豆腐を入れていく。味噌汁の具の基本といえばやはりこれだろう。ちなみに味噌は合わせ味噌派である。
 さて、他のおかずは何にするか……。
 冷蔵庫と相談し、ブリの照り焼きにしようと決める。
 そうしてから、ふと夕べのことを思い出す。ベルモットに招待されたディナー、そこで出された料理……そしてフランベに感心した様子の名前のことを。
 調味料を入れた棚には、調理酒の代わりに使っている日本酒がある。そしてラベルには日本産の文字。原材料を確認し、「よし……」とひとり呟く。

「試してみるか……。日本の酒、日本の素材で……」

 結論から言えば、日本酒によるフランベは成功した。上がる炎に思わず口角が上がる。
 この時点で興が乗ってしまった零は、ブリが余っていたこと、名前が帰宅するだろう時間がまだ先だったことも手伝い、二品目、三品目と作り続けた。

「……何かのお祝い?」

 帰ってきた名前はテーブルに並んだ料理の数々に呆然とした声を洩らした。それも当然だろう。何せ朝食だというのに、一人分だけで七皿も用意されているのだから。

「はは……」

 自分でも作り過ぎた、そう思うほどだ。零は「つい、ね……」と頭を掻く。
 それを見て、名前は肩を竦めた。

「零って時々こういうことするわよね……」

「うーん……否定できないのがつらいところだなぁ」

「……まぁ、あなたの手作りならいくらでも食べられるからいいけど」

 名前は笑い、「先にシャワーを浴びてくる」と言った。零が予測していた通り、外に出た彼女は気を紛らわすために走り込みをしてきたらしい。
 料理が冷めないうちに、と慌てていたのか。汗を流してきた名前の髪はまだ湿り気を帯びていた。

「そんなに急がなくてもいいのに……」

「だって早く食べたかったんだもの」

 ……嬉しいことを言ってくれる。
 だから零は「しょうがないなぁ」と呆れながらもこぼれる笑みを抑えられなかった。いいように振り回されている。感情も、行動も。しかしそれが心地いいと思ってしまうのだから、自身も大概だろう。
 食べ終わったらしっかり手入れしてやらないと。
 いただきますと二人手を合わせながら、零はこの後の段取りを考える。名前は自分のことに無頓着だから、自分がしっかり管理しなければ。
 使命感と征服感に駆られていることなど露知らず。名前は一皿一皿「美味しい」と頬を緩めていた。

「でもさすがに作り過ぎたよ。余ったら風見にでもやろうかな」

 冗談半分だった。つまり半分は本気で。零はおざなりな食生活を送る部下の名前を出した。
 するとなぜか名前は顔を曇らせた。「それは……複雑」と、眉間に皺を寄せて。

「零のご飯は独り占めにしたいけど……風見さんのことも嫌いじゃないし……」

 唸る名前は気づかない。その言葉が、自分の一挙手一投足が、どれだけ降谷零の心を揺らしているかなんて。

「……いくらでも作ってあげるよ、名前、君のためなら」

「ありがとう……?」

 ひとり笑う零を訝しむ名前。彼女には零の真意はわからない。「君のために毎日味噌汁を作ってあげたい」そんな常套句の意味を、彼女は知らないから。

「味噌汁だけなの?」

「いや……もちろん他のものも、ね」

「……じゃあ、私からもお願いしておく」

 知らないのに、彼女は欲しい言葉をくれる。いつだって。昔も今も、彼女は降谷零の手を取ってくれる。

「私のために、毎日ご飯を作ってください」

 「でも忙しい時は私に任せて」と付け足して、名前は微笑む。白く、清らかに。眩しいほどに、彼女の笑みは汚れない。

「……あぁ、約束するよ」

 永遠なんか信じちゃいない。名前もきっとそうだろう。
 けれどこの誓いだけは守り抜きたいと思った。彼女の笑顔だけは。
 手離しがたいと、思ってしまった。