ゼロと狼の晩餐


 ベルモットのもうひとつの顔、シャロン・ヴィンヤードは世界的な大女優だ。だからそんな彼女からのディナーのお誘いは名前にとって大変喜ばしいものだった。
 以前ならばーー降谷零に胃袋を掴まれる前ならば。

「どうしたの?らしくもない……あなたなら一人前じゃ満足できなかったはずでしょう?」

 手の進みが遅いとベルモットに指摘され、名前は言葉に詰まった。決して料理が不味いわけではないのだ。ただ名前の嗜好が変わってしまっただけで。
 名前はちらりと隣に視線を流した。名前を気に入っているベルモット、そんな彼女の気分を害さず済む最適の答えはなんだろう。
 助けを求める目から、零は彼女の思考が手に取るようにわかった。それほどまでに彼女とは時間を共有してきた。
 だから零は彼女の代わりに「すみません……」と答えてやった。バーボンらしく、軽薄な笑みを添えて。

「彼女には試食を手伝ってもらったんですよ。喫茶店で出す新メニューを考えなくちゃならなかったもので……」

「そういえばあなたそんなこともしてたわね」

 ベルモットは一応の納得を示してみせた。バーボンの潜入先のひとつが喫茶店であることは彼女も承知済みだ。
 けれど彼女のバーボンへの信用度はわりと低かったらしい。

「本当なの?」

 と、わざわざ名前に確認をとるベルモット。
 その顔に浮かぶのはバーボンへの警戒心……だけではない。純粋な懸念。名前の身を案じているのだと、彼女の目からは伺い知ることができた。
 ーーらしくないのはあなたの方じゃないか。
 魔女と呼ばれる女の顔は、母親が子を見るそれとどこか似ていた。

「……うん、彼の言う通り。ベルモットが気にすることは何もないわ」

「ならいいけど……」

 そうしていると、確かにベルモットと名前は親子のようだった。見た目でいうなら姉妹といったところか。その髪色であったり秀でた容姿であったり、ふたりの間には共通点を見出だすことができた。
 ーー安室透と名前よりも、ずっと。

「私は大丈夫。なんたってあなたの弟子だってこなせたんだから」

「……そうね」

 けれど名前にしかないものもある。たとえばその真っ直ぐな眼差しであったり、組織に属しながらも汚れなかった心であったり。
 そうしたものをベルモットも感じたのだろうか。
 彼女はほんの少し目を細めた。どこか寂しげに、あるいは嬉しそうに。ベルモットは名前を見ていた。

「まぁあなたが不調じゃないならいいわ。無理せず食べなさい」

「無理はしてないわ。一人前くらいなら今日だって平気で食べられるもの。……ベルモットの選ぶ店が美味しいのは知ってるし」

「そう……」

 その言葉だけでベルモットは頬を緩める。魔女も娘の前では形無しだ。
 三人は米花センタービル最上階、フレンチレストランアルセーヌに来ていた。展望レストランということだけあって、ネオン街と化した米花町が一望できる。
 とはいえ今レストランにいるのはこの三人だけ。ベルモットによって貸し切りにされたお陰で、せっかくの夜景もただの添え物となっている。

「ところで後始末の件だけど……」

 ベルモットはワイン片手に口を開く。彼女は笑っているが、その内容はまったくもってこの店の雰囲気にそぐわない。
 いや、この国には必要のないものだ。彼女も、組織も。
 そんな内心を隠し、零は澄まし顔で答える。

「もう済んでいます。ご安心を……」

「ぬかりはないってところかしら……。さすがね、バーボン……」

 ベルモットの賛辞を食事を進めながら聞き流す。彼女から褒められたところでどうということはない。いかに評価されようと、隙を見せればすぐに消される。組織とはそういうところだ。
 けれど彼女の言葉に喜ぶ名前を見れたのは悪くない。名前自身が褒められたわけでもないのに、誇らしげに笑む口許。それでも抑えているらしく、口端がひくついている。
 そしてそういう姿を見るたびに、零はなんとも言えない胸の疼きを覚えるのだった。

「デザートをお持ちしました……」

 そこでちょうどよく給仕が現れた。彼は「コアントローで仕上げをして参ります」と説明しながらグラスからリキュールを注いだ。するとボウッと音を立てて火の手が上がる。

「おお……」

 鮮やかな手際と漂う甘酸っぱい香りに輝く名前の瞳。凄い、と小さく呟く彼女は本当に組織の人間かと思うほど素直にできていた。

「フランベ……洋酒のアルコールを炎でとばし、素材の香り付けをする調理方法……」

 しかしベルモットの方はそうはいかない。
 独り言のように彼女は呟くと、妖艶な笑みを浮かべた。

「痕跡は残さず……しかし、関わったもの全てに芳醇な酒の香りをまとわせる……」

「皮肉ですか?まるで……組織のようだと……」

 そう返しながら、しかし零の頭にあるのは組織のことではなかった。
 目の前で燃える炎。その赤色が思い出させるのはただひとりーー赤井秀一のことだった。
 ジンが録画したという赤井秀一の死に際の映像。燃え盛る炎と焼かれていく体。それは赤井秀一がこの世にいない証拠として組織では扱われていた。
 けれど、降谷零はそう思わない。赤井秀一、彼が死んだなどとは。
 指紋しか採取できなかった遺体などなんの意味もない。赤井秀一ならば自分と似た背格好の男を用意するくらい、そしてその男の遺体を焼くことくらいわけないはずだ。
 ーーそんなことを考えていたせいか。

「どうしたの?怖い顔して……次の仕事のことを考えてた?」

 ハッとすると、からかうように弧を描く唇がある。隣を見れば、それとは対照的に不安に揺らぐ瞳がふたつ、零を見上げていた。

「そう見えましたか?」

 名前を安心させようと笑みかける。たぶん彼女には伝わってしまったろう。降谷零が赤井秀一に並々ならぬ憎しみを抱いていることは彼女も承知している。そしてそれ故に彼女が自身の身を案じていることも、降谷零はわかっていた。
 だから「大丈夫だ」と言う代わりに、名前の手を握った。テーブルの下、誰の目にもつかない暗がりで、密やかに。

「心配はしていないわバーボン……あなたほどの能力があればーー」

 楽勝よ、とベルモットは笑う。
 彼女と手を組むこととなった次の仕事。シェリーの暗殺。けれど降谷零には彼女を殺すつもりはなかった。組織から逃亡した彼女には聞きたいことが山程ある。日本の、公安警察として。
 だからそう意味ではとても「楽勝」とは言い難い仕事だ。だが降谷零に不安などという言葉はなかった。
 ーーなにせ、この手にある温もりが力を貸してくれるのだから。