司書と直哉と水着の話1


 水着、というのはなんと頼りない衣服だろう。
 姿見の中をまじまじと見つめ、名前は溜め息を吐いた。
 デバイスで見ている時には可愛らしいとしか思わなかったのだけれど、こうして実際に届いたものを着てみるとーーそれも自室でひとり着ていると、その状況の滑稽さも相まって頭が冷静になってくる。

「まぁでも外で着てしまう前に気づけてよかったのかしら……」

 買ったばかりのものではあるけれど、仕方ない。もう少し露出の少ない水着を選ぼう。せっかく誘ってもらえたのだから、気持ちよく海水浴に行きたい。
 そう考えながら、首の後ろで結んだ紐を解こうとした時だった。

「なんだ、もう脱いじゃうのか。もったいない」

「っ!」

 笑みを含んだ声。それは本来名前の部屋には存在しないはずのもので。けれど聞き慣れたそれに、名前は勢いよく振り返った。

「直哉さん……」

「よ、返事がないから勝手に入らせてもらったぜ」

 扉のすぐ隣、壁に寄りかかった彼は、名前の声に片手を挙げた。その顔には悪びれる様子はない。それに彼に鍵を渡したのは名前自身だ。その鍵をどう使おうと彼の勝手である。
 だから名前はそれについては何も言わなかった。ただ早鐘を打つ胸を押さえ、「心臓に悪いわ」という形ばかりの抗議だけは行った。
 なのに直哉はくしゃりと相好を崩す。名前のその反応すら好ましいと言わんばかりに。「悪い悪い」絶対にそうとは思っていない語調で彼は詫び、それから「でも、」と目を細めた。

「こうしたのは正解だった。……お陰で名前の水着姿も見れたしな」

 箪笥の肥やしにされる前に。そう言い添えて笑う彼の顔が名前には見られない。見ていられない。だって、それどころじゃない。

「……〜〜〜っ!」

 不意を突かれ、頭から抜け落ちていた。自分の置かれた状況に。具体的に言えば、自分が今下着同然の格好をしていることに。
 思い出し、羞恥に駆られ、真っ白になりーー。

「こ、来ないでください!!絶対、そこから動かないで!」

 名前が最初に企てたのは逃避。しかし室内に出口はひとつしかなく、そこには直哉が立っている。残る脱出経路といえば窓になるが、名前にはこの階から飛び降りる身体能力はない。
 それでもどうにか距離を取ろうとした結果、名前は窓際にまで退き、そこにかかるカーテンで体を覆い隠すこととなった。
 ここまでがすべて反射的な行動で。冷静になれば馬鹿馬鹿しい、そもそも水着とはそういうものであるし、海水浴に行くならば人目は避けられないというのにーーそれでも名前は逃げの道を選んだ。
 名前は必死だった。なのに彼はその叫びすら笑い、呆れた風で腰に手をやった。

「なんだそりゃ、ひどい言い種だな」

「酷いのはわたくしの格好の方です!こ、こんな分不相応な……」

「何言ってんだ。選んだのは俺だし、第一似合ってたぞ?」

「直哉さんは身内贔屓が過ぎるわ……」

 名前はぎゅっとカーテンを握る。今自身を守るたったひとつの布切れを。その下にあるものと、目の前に立つ美しい人を見比べて。
 ーーそうしてから、ひどく泣き出したい気持ちになった。

「直哉さんにはわかりっこないもの……」

「どうして?」

 いつの間にか。
 数メートルはあったはずの距離がなくなっていた。名前が俯いている間に距離は詰められ、神様は柔らかな声音で問いかける。
 日除けのない窓からは真昼の白い日差しが射し込んでいた。その破片は粒子となって舞い散り、彼の輪郭を際立たせる。その聡明な瞳も、スッと通った鼻筋も、薄い唇も。伸ばされる繊細な指先すらも神々しく、名前は力なく首を振った。

「だって、あなたは神様だもの。神様みたいにきれいなんだもの。……神様の隣になんて、立てないもの」

 それは考えないようにしてきたことだった。小さな箱庭では考えなくてもよいことだった。
 けれど外に出るのなら話は違う。そこには名前と神様だけの世界はない。外には誰かの世界があって、どうしたってそれに触れずにはいられない。他人の目を避けて生きていけやしないのだ。
 それを痛感し、怖くなった。
 自身が貶められるのはいい。でも、自分のせいで彼の価値まで下がるのは嫌だった。彼を、神様でいさせたかった。世間という世界のために。

「……バカだな、名前は」

 なのに彼は、神様はその神聖な指先で触れる。薄汚れた名前の頬に。柔らかく撫で、抱き締めてくれる。名前の纏った殻ごと。ふたりの間に流れる深い川すら飛び越えて。

「神様にだって時には休暇が必要なのさ。じゃなきゃやってらんねーだろ?」

 だから、と彼は笑う。神様らしくない、悪い顔で。

「お前がーー名前が穢してくれよ。俺を、神様から引きずり落として、」

 掠れた声が耳朶を擽る。悪いことをしようと悪魔が囁く。とびきりに美しい、緑の目をした悪魔が。

「ん……っ」

 そんなものに口づけられて、ただの人間でいられるはずもない。名前はもう、堕ちていくだけだ。真昼に舞い降りた悪魔に誘われて。