太宰と司書と温泉旅行


 光が広がる。

「あれ……?」

 それが自分の声だと気づくのに数度の瞬きを要した。
 見覚えのない視界。天井。それがなんなのか考えるより先に、太宰の鼻先に黒髪が落ちた。

「あっ、気づかれました?」

 よかった。ふわりと微笑む頬。零れ出た髪から漂う薫り。濡れたような双眸。ーー宿の浴衣に包まれた肢体。
 紅を刷いたみたいな唇が動く。

「あなた、脱衣場で倒れてらしたのよ」

「だついじょ……」

 言われて、思い出す。昨夜眠れなかったこと。それを隠して旅行に来たこと。個室についた露天風呂には彼女のあとに入った。そしてそれに後悔したのが湯船に浸かってからだった。浸かってから、実感が沸いた。年甲斐のないことだ。そしてそれを明らかにするのは太宰の信条に反した。そんなの自尊心が許さない。
 元より太宰は長風呂派だ。しかし今回のそれはいつもとは違った。だから判断を誤ってーー

「かっこわる……」

「え?」

「だってさ……」

 口を開きかけて、やめた。頭がうまく回らない。思考が纏まらない。霧がかった脳内。気だるい四肢。動かそうとして、首や足に冷ややかな感触があるのに気づいた。視線だけやればそこにタオルが巻かれているのが見える。
 手間をかけさせたな、と思った。脱衣場から自分を運び出したのも名前だろう。彼女の作った絡繰は呆れるほどよい働きをしてくれるのだから。
 全裸じゃなかっただけ僥倖と言うべきか。意識を失う直前の自分を思い返して内心苦く笑う。まずいなと思って咄嗟に出た行動が自身を取り繕うことだなんて、いいのか悪いのか。
 考えあぐねる太宰を見て、何を勘違いしたのか名前は首を傾げた。

「お水が御入り用ですか?」

 水差しは彼女の手にあった。頷いて、脱力した手を伸ばす。
 が、届く前に名前は真面目な顔をして言った。

「お辛いなら口移しでも致しましょうか?」

「ーーっ」

 ーーバッカじゃないの。
 心中は言葉にならなかった。彼女に口を塞がれたから、ではない。単に太宰が咳き込んだからだ。そうしながらも頭を占めるのは自分の上体を起こしてくれている名前のことで。背中に回された手に、撫でさする温もりに意識がいって。
 涙目で睨めつける太宰を、しかし名前は穏やかな目で見下ろしていた。

「カッコ悪いかどうかはわかりませんが、もうあんなところで眠るのはやめてくださいね。……心臓が止まるかと思いました」

 差し出されたグラスには水が注がれていた。グラスの表面は水滴で濡れそぼっていた。冷たかったはずの水は生温く乾いていた。それがなんだかとてつもなくたまらなくてーー太宰は目を瞑った。

「……そ」

 心臓が戦慄く理由を知っている。その感情の名前も。ーー名前が同じ気持ちだということも。
 「俺が同じヘマすると思うの」憎まれ口は羞恥の裏返しだというのにも名前にはとうに気づかれている。でも彼女は触れなかった。そうね、と微笑んで、生乾きの髪に触れた。

「でも……ふふっ、御免なさい、すこし役得だなって思ってしまって」

「は?」

「だってあなたの寝顔を見られるなんて滅多にありませんもの。ですから堪能させていただきました」

 湯に浸かってそのままの髪はきっと酷いことになっているだろうに。常とは違い、流したままの太宰の髪。何が面白いのか、名前はそれを頬を緩めて弄んだ。それを横目で眺めて、溜め息を吐く。

「……ほんとアンタって俺のこと好きだよねぇ」

「ええ、それはもう。ですからこの髪を整えるのはわたくしにさせてくださいね」

「……勝手にすれば」

「はい、勝手にさせていただきます」

 太宰の突き放した物言いにも名前はへこたれない。もっと動揺してくれれば面白いのに。出会った頃のおとなしさが嘘みたいだ。
 だが太宰に不快感はなかった。可愛いげがないと口を尖らせるのはやめないけれど。でも彼女の変化が自分によるものだと考えればーーなにしろ太宰以外の前ではいまだに"良い子ちゃん"なのだからーー優越感にも似たものが込み上げてくる。太宰治は特別なのだと。彼女の目が、声が、仕草が認めてくれる。それがひどく、いとおしい。……口に出してはやらないけど。

「その代わり絶対内緒にしといてよね、ていうかここでのことはなんにも話すなよ」

「なんにも、ですか?」

「そうだよ、当たり前だろ?先に言っとくけどアンタのだぁいすきな助手にもだから」

 "だぁいすきな"なんて自分で言って吐きそうになる。なのに名前は「しようがないですねぇ……」なんて子供を見るような目で頷いた。ことさらに含んだ棘には触れずに。
 かといって太宰から何か言うこともなかった。これ以上は墓穴を掘るだけだ。わかっているから、なんでもない顔で言葉を続けた。

「あ、あとオダサクにも安吾にもだからな、この二人には禁止、なにがなんでも禁止」

 今回の失態を知られたら間違いなく笑われる。絶対、確実に。だって逆の立場なら太宰だって笑い飛ばしてた。バカだなぁ。そうやって弄り倒してた。でも自分が笑われるのは絶対に御免だ。
 名前は「はいはい」とおざなりな返事をした。……本当にわかってるのか?
 念を押そうと開きかけた太宰の口は、しかしまたしても塞がれた。今度こそ、彼女の唇で。

「……わかってます。あなたのだぁいすきなお二人にも話やしません。絶対に」

 これはあなたとわたくしだけの秘密よ、と濡れた唇が弧を描く。その柔らかさを太宰は知っているのに応えられなかった。呆然と、目を見開くばかりで。

「……ほんっとーにかわいくない」

「そう言う太宰さんはとっても可愛らしいわ」

「バッカじゃないの」

 絶対に、絶対に、次は自分が出し抜いてやる。
 その決意を込めて名前を見つめてーー気づいた。
 彼女の頬が微かに赤らんでいることに。
 気づいて、高鳴って、にやけて。太宰の変化を察して遠退く指を絡めとった。震える指先。戦慄く唇。乱れる吐息。色めく瞳。
 距離を詰める。睫毛の影が見えるくらいに。鼻先が触れるくらいに。近づいて、囁いた。

「……名前、」

 それだけで彼女の肩は揺れる。あぁ、期待を押し隠そうとするその眼差しをぐちゃぐちゃにしてやりたい。なにも考えられないくらい、悪態も揶揄も口に出せないくらい、ぐちゃぐちゃに蕩けさせたい。
 太宰の思考にあるのはそれだけだった。かっこのつかない身形もなかったことにしたい失態も、今はもう頭になかった。名前の色づいた首筋だとか立ち上る芳しい薫りだとか、そういうのしか考えられなかった。
 だから恥も外聞もなく囁けた。

「アンタのそういうとこ、嫌いじゃないよ」

 そう言って噛みついた首筋はひどくあまやかな味がした。








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Bnの太宰はむっつり(やるときはやる)だと思います。(失礼)