夏の夜の夢


 観音坂独歩は疲れていた。
 疲労困憊。頭は回らないし足は棒のようだ。ついでに視界まで揺れてくる始末。

 ーーこれはヤバいな。

 ぼんやりした頭でそれだけ思った。それだけをどこか遠くにいる冷静な自分が分析していた。でもだからどうしろと言うのだろう?歩かなきゃ家には帰れない。進むしか独歩に道はない。

 ーーいや、進んだところで何があるかもわからないのだけど。

 そう思い至ると、なぜだか足は止まってしまった。動かなければ。そう思うのに、体は言うことを聞かない。意識と肉体の断絶。回路は千切れて火花を散らしている。

「はぁー……」

 口を開いても溜め息しか出てこない。携帯を取り出すのも億劫で、タクシーを呼ぶなんてもってのほか。一度立ち止まってしまった体はどうにもままならない。 
 独歩の体はずるずると滑り落ちた。アスファルトの上。固い固いコンクリートの冷たさがスーツ越しに伝わってくる。このまま横になりたいとすら思った。
 独歩は地べたに座り込んだ。そうしようと思ったわけではないのだけれど、結果として停滞したのは事実。もう後にも先にも行けそうになかった。

「……?」

 そんな独歩のすぐ近く、頬が触れるほどの距離で、何かが駆ける。生じる違和感。肌に微かに残る感触。それはひどく儚いものであったけれど、独歩の視線を動かすには十分な材料だった。

「なんだこれ……?」

 独歩と同じように地面に落ちていたのは布の切れ端のようなもの。ほとんど無意識のうちにつまみ上げてみて、初めてそれがリボンなのだとわかった。

 ーー空からリボンが降ってきた。

 なんてメルヘンでもなければホラーでもない結末。たぶんどこかの家から飛んできたものだろう。にしてはこんな夜遅くに何をやっているのやら。まさか洗濯などするはずもないし。
 考えながら、独歩は何の気なしに空を見た。首を捻り、頭上に目を馳せた。
 独歩の背後にはありふれたマンションが立っていた。その向こうに広がるのは夜空。それから小さな影がひとつ。

 ーー影、だって?

 通り過ぎようとした視線が固まる。目を凝らし、空に浮かぶ影を見る。
 鳥だろうか。にしては大きすぎる。では建物の一部かといわれると不自然さが残る。何せその影は風に踊らされるように揺れているのだからーー。

「…………っ!」

 次の瞬間、独歩は走り出していた。どこにそんな力が残っていたのかと自分でも驚くくらいの速度で。地を蹴り、マンションに踏み込み、階段をかけ上がっていく。
 頭にあるのは先ほど目にしたもの。頼りなげに佇む影。動物よりも大きく、建物にしては生気のあるーー人影。
 ほんの少し手を加えるだけで空に落ちていきそうな影は独歩の目に焼きついていた。焼きついて、消えそうになかった。
 だからたぶん駆けたのだと思う。息を切らし、汗を流し。

「おい……っ!」

 そうして独歩は屋上に続くドアを開けた。
 そこには小さな星々と底無しの闇が広がっていた。そこには境界などなく、天でも地でもない何かが広がっていた。
 その先に、人影はあった。
 隔たりの先に、少女は立っていた。

「あんた、何してるんだ!」

 独歩の叫びに、影は揺れる。翻る長い髪。光を反射する瞳。
 猫のような目をした少女は、独歩の姿を捉えると首を傾げた。

「……知り合い?」

 少女は心底不思議そうだった。無垢といっていいほどにまっさらな表情のまま、自身を指差していた。

「いや、知り合いじゃないけど……」

 独歩は年下の少女にたじろいだ。予想外だった。想像もしない展開は疲れきった頭には刺激が強すぎたのだ。
 口ごもる独歩を見て、少女は興味をなくしたらしい。
 また闇夜を見つめて、そして。

「待て待て待て!」

 こういう時どうすればいいのか。
 ニュースやドラマなんかだと刺激しないようにとかなんとか言っていた気がする。解決策は言葉で言語で会話で、つまるところ独歩の選択はたぶん間違っていたのだろう。
 そう気づいたのは少女の手を掴んでからだった。掴んでから、少女の瞠目した瞳に射抜かれてから、そうしてから独歩は冷や汗をかいた。

「え、えーと……」

 言葉なんか思いつきもしなかった。元々こういったことは得意分野ではないのだ。そもそもなんの関わりもない少女にかかずらっていることすららしくない。
 こんなことしなければよかった。そう後悔しながら、しかし独歩は手を離すことができなかった。
 それは良心の呵責。それから一粒ほどの同情。あとは……なんだろう。
 とにかく独歩は自分自身のために少女を引き留めた。だから彼女に「どうして」と言われてもそれしか答えようがない。

「目の前で飛び下りなんてされたら気分悪いだろ……」

 この答えが正解でないことくらいわかってる。わかってるけど、どうしようもなかった。

 ーー終わったな。

 独歩は悟った。このあとの展開を。手をほどき墜落する少女。しょうがなしに呼ぶ警察。その先にあるのは叱責と蔑視と……とにかく考えだけで嫌になる未来だろう。自殺しようとする少女を見殺しにした人でなしとしてこれからの人生を歩まなければならないのだ。最低最悪の人生。いやそれくらいがちょうどいい。お似合いかもしれない。
 独歩がそこまで考えている間、しかし少女は想像通りの行動はとらなかった。
 少女は独歩を見、それから少し考えた風に視線をさ迷わせた。そんな些細な仕草にもハラハラする独歩を置き去りにして、少女はゆっくりと口を開く。

「これは、証明なの。だからあなたが気に病むことじゃない」

「証明?」

「そう」

 頭が麻痺して鸚鵡返ししかできない独歩に、少女は頷き返す。これは、証明。そして挑戦でもあると。

「畜生は死を知らない。でも人間は知っている。可能性を知っている。だから飛ぶの。飛ぶことで私は人間だと証明するの」

 話しながら、少女はフェンスを乗り越えた。ひょいと、軽やかに。それはこれから死ぬ人間のものには到底思えなかった。
 でもだからこそ独歩には恐ろしく感じた。少女の言葉が本物だと直感的に諒解した。たぶん彼女は息をするのと同じ速度で飛んでいくだろう。たぶんきっと、絶対に。

「だとしても死ぬのは変わらない。俺の寝覚めが悪くなるのも」

 だからこそ今ここで引き留めなければならなかった。せめて、そう。これが過去になるまでは。記憶が薄れ、思い出にすらならなくなった頃まで我慢してもらわねば困るのだ。
 そう言っても、少女の意志は固かった。

「でも私の良心は痛まない。だってあなたは知り合いじゃないもの」

 ひどい言い様だ。最低最悪。自分のことしか考えていない身勝手で我が儘な台詞。
 だがだからこそ助かった。そうこの時独歩は思ってしまった。後々後悔することになると思い至らずに。

「なら、知り合いになればいい」

 回路のほとんどが焼きついている頭では正常な判断を下せない。思いつきは喉で留まることを知らず、口から溢れ出す。名案だと、心底信じたまま。

「今日から俺はあんたの知り合いだ。だから目の前で死なれたら俺は困るし、あんたも困るわけだ」

「そう……?」

「そうだ!」

 独歩は自信満々に胸を張った。少女の戸惑いなど意に介さず。自身の弁に満足しきっていた。

「じゃあ、今日はやめておく……」

「今日じゃなくて明日もだ」

「でも明日の私たちが知り合いである保証はない……」

「う……っ」

 確かに。
 知り合いとは曖昧で薄氷の上の存在だ。あまりに頼りない記憶はいつ風化するともしれぬ。そして忘却の後には何も残らない。ならばこの約束も意味のないものになってしまう。
 そう少女は言外に言っていた。
 ならば選ぶ道はひとつしかない。

「それなら明日も会えばいい。明日も明後日も」

 それなら文句ないだろう。
 独歩にはもう自分が何を言っているのかわからなかった。今すぐ目を閉じてしまいたいほどに瞳は乾いているし、体はとうの昔に脱力しきって動く気配がない。
 そんな状態であったから、少女が首肯するのを見届けてーーそれから意識は断絶したのだった。