リュートに寄せて


 その日も彼女は屋上にいた。

「こんにちは、知り合いの観音坂さん」

「こんにちははないだろ、どっからどう見ても夜だぞ……」

「あなたがそう思うならそうなのかもね」

 名前と名乗った少女は可愛いげのない物言いで肩を竦めた。ついでに言えば愛想もない。独歩は自分のことを棚に上げて少女のことをそう評した。
 今日も今日とてフェンスの向こう側に座っていた少女。だが彼女は独歩の存在を認めると立ち上がり、こちら側へと歩み寄る。そこにある隔たりなど少しも感じさせないで。ーー生も死もどうだっていいみたいな素振りで。

「なんだよそれ」

 だから独歩はここに来るのをやめられない。そうした後で少女が空に堕ちていくのが容易に想像がついたから、どれほど体が疲弊していようと訪れずにはいられなかった。
 だがそれは善意なんかじゃない。そんなまっさらなものではなく、自分が明日の朝日を少しでも気持ちよく迎えたい思うからで。つまりはただの自己満足でしかなかった。

「私の世界とあなたの世界は違うってこと。あなたの感じている世界はあなただけのもの、そういう話」

「意味わからん……」

「そう?」

 独歩の気のない返答に名前は小首を傾げ、ほんの少しだけ口角を緩める。
 それはきっと意図したものではないのだろう。それくらいにささやかなもので、たぶん日常にまみれていたら独歩だって気づかなかったはずで。

「……」

「どうかした?」

「いや……」

 けれどそういうのを見るたびに、なぜだか独歩の中で充足感に似たものが生まれていた。
 これは自己満足だ。自分勝手で偽善的な行為で、そこに付随するものなどあるはずもない。……その、はずだ。特別なことなんて何もない。そう、何も。

「…………?」

 その時。
 ふ、と。
 脳の奥を痛みが掠めた。頭痛というには微かな、けれど確かな刺激。ノイズのようなそれは一瞬独歩の思考を奪い、そして何事もなかったかのように消え去った。
 だから「大丈夫?」と覗き込まれ、首を振る。平気だ、何も、おかしなことなんてない。

「……ならいいけど」

 名前は納得していない様子だった。だが何も言わず、独歩の隣に腰を下ろした。そのまま塔屋に寄り掛かる姿からは年頃の少女らしさは伺えない。

「汚いだろ、そんなとこ」

「きれいだよ、あなたがそう思えば」

 屁理屈みたいなことを名前はいつも淡々と口にする。だから聞いている方もいつの間にかその気になってしまう。彼女が言うことなら真実なのだろうと。

「変な説得力だけはあるよな」

「ありがとう」

「いや、褒めてないし」

 呆れながら、独歩も冷たいコンクリートの上に座り込む。そうしてからスーツが汚れるなと思ったけれど、まぁいいかと忘れることにした。彼女の言う通り、きれいだと思えばそれが真実なのだ。たぶん、この世界では。

「そういえばいつもここにいるけど。ちゃんと学校には行ってるのか?」

 ぼんやりと目を馳せていると、下界に広がる人工的な星々が嫌でも視界に入ってくる。すると同時に思い出されるのは日常の有象無象。そんなものにもひどく憂鬱な気持ちになって、独歩はつい沈黙を破った。
 名前は独歩が来る時には必ず屋上にいる。いつもいつも、先んじて。
 だから独歩は心配になったのだけれど。

「行ったよ、行ける時にはね」

 名前はけろりとした顔でそう答えた。そこには嘘を吐く時の躊躇いや後ろめたさなどというものは微塵もない。ならばこれもまた真実なのだろう。
 独歩は「そうか」と頷いた。それから咄嗟に思い浮かんだ問いかけを口にしようとしてーーやめた。

「……まぁ、俺だって無理強いするつもりはないけど」

 代わりに吐き出された言い訳じみた台詞。今さら取り繕ったってどうしようもないのだけれど、ーーそれでも。

「…………」

「な、なんだよ」

 名前はすぐには答えなかった。ただ感情の読めない目で独歩を見た。
 その時独歩は初めて、彼女の目が鼈甲のように艶やかなことを知った。外は夜の闇に満たされているというのに。不思議とその琥珀色は、角度によって輝きを変える瞳は、色鮮やかに捉えることができた。

「ううん、ちょっと、驚いただけ」

 それをふわりと和らげて。
 名前は笑った。微笑よりもずっと儚く、仄かに。触れたら溶ける雪のようなささやかさで、名前は笑った。
 驚いたのは独歩も同じだ。彼女がそんな風に笑うのを知らなかった。いや、彼女とはただの知り合いでしかないのだから知らなくても当然といえば当然なのだが。
 それでも驚いたしーー嬉しかった。彼女が生きて、笑っていることが。独歩はそのことに安堵し、喜んだのだ。
 そう思うことにもおかしいか、と内心で笑いながら、けれどなぜだか違和感は覚えなかった。それが当たり前のことだと心は受け止めていた。

「あんたって変わってるよな」

「よく言われる」

「言われるのか……」

「でもあなたに言われるのは悪くない気分」

 どういう意味だ、と独歩が聞くより早く、名前はやおら立ち上がった。

「今日はもう遅い。帰った方がいいよ」

 先程までは奥底まで見えていた瞳が今は遠い。月の裏側みたいに陰り、その色さえ定かではなかった。
 その空気に呑まれた独歩は「あぁ……」と答えることしかできない。釣られるようにして身を起こした。なんだかやけに頭がぼうっとする。徹夜明けの帰宅途中みたいに。

「またあした」

 そう言う彼女がどんな顔をしているかすら独歩にはわからなかった。