もしもスコッチへの依存度が高かったら

 夜が来て朝が来て、また夜が来る。そこに境界線などなく、そこに差異などなく。朝とも夜とも知れぬ中、名前はカーテンと毛布の檻に身を横たえていた。往来の喧騒はいつの間にか途絶え、世界は真冬に閉ざされた。
 室内には針の曲がった掛け時計が転がっている。そうしたのは名前だった。もうどれだけ前になるのか。1週間?2週間?1ヶ月も前になるかもしれない。とにかく、名前はその時計を叩き壊した。壁にかかったそれを引っ掴み、床に叩きつけ、命を終わらせた。それだけのことなのに、我に返った時肩で息をしていた。名前は頽れた。喉からは潰れたような声が漏れた。
 名前の部屋には必要最低限の家具しか置かれていない。ベッドとテーブルとクロゼット。狭い一室に緑を持ち込んだのは彼だった。彼はふらりと訪れてはいくつかの土産を置いていった。今も栞が挟まったままの小説がテーブルの上に残されている。彼はこの部屋で本を読んだりベースを弾いたりした。名前はそれを見ているのが好きだった。
 針の進む音は嫌いだ。正確には、時の流れを感じさせる音が厭わしかった。それは嫌でも名前を現実に引き戻し、彼から引き離す。時間なんてなければ、過去も未来もなく今があるだけだったのに。時計なんてものを作ったせいで人は永遠を失ったのだ。そう、時計さえなければ。
 なのに彼は帰ってこない。栞は挟まったままで、彼のグラスは埃をかぶり始めていた。そういったものから目を逸らすように、名前は毛布を頭から被って縮こまる。はやく、はやく世界が凍りつきますように。
 時折携帯が鳴って、名前を狩りへと向かわせた。それが一層名前の時間を歪ませた。人を追い立て、狩る。いつしかそれは機械化され、名前は作業を終えた後で自分がまだ生かされていることを知った。なんの感慨もなかった。自分が狩られるのはいつだろうなと思うだけだった。
 しかし神は名前を見捨てなかった。世界は色を取り戻し、時間は閉ざされた。名前は永遠を手に入れたのだ!
 ベルモットは驚いていたが、すぐに表情を緩めた。「一時はどうなることかと思ったけど……」彼女はそう言って、名前の頬にキスをした。「やっぱりあなたこそがフェンリルの名に相応しいわ」名前も笑って応えた。「ごめんなさい……、でももうつらいことなんてないから大丈夫」ベルモットは頷いた。彼女は名前の言葉に嘘はないと確信していた。
 ジンは名前を処分する気でいた。利用価値があったとしても信用ならなかったし、何より見ているだけで不愉快だったからだ。だがベルモットから連絡を受け、名前を隅々まで見て、考え直した。「ちょっとはマシになったか」彼は煙草の煙を名前に吹きかけてから、新しい仕事を言いつけた。
 すべては順調、滞りなくいっていた。
 でもある時名前は思った。この秘密を話そうと。話さなくちゃならない人がいると思った。
 バーボンは用心深い性格だった。それでも彼の名を出せばたちまち表情を変えた。名前は自分の選択が正しかったことを実感する。
 名前は宝箱を開いた。そこには彼がいた。名前が出掛けた時のまま、彼は変わらずそこにあった。名前を、そしてバーボンを見て、穏やかな笑みを浮かべる。名前は振り向き、後ろに立つバーボンに両手を広げた。

「ようこそ、バーボン」

 名前の後を歩きながら、バーボンは油断なく辺りに気を配っていた。組織の罠かもしれない。スコッチの裏切りが露見した今、ありえないことではないだろう。もっとも、組織にいて身の休まることなどなかったが。
 名前に声をかけられるのは久しぶりのことだった。1ヶ月ほどか。それはスコッチを喪う前のことで、ここ最近の彼女の様子はベルモットから聞くのみであった。一時期は処分を検討されるほど知性を失いかけていたらしい。だが彼女は持ち直し、今では以前と変わりなく仕事をこなしているという。「あの子の言葉に嘘はなかったわ」ベルモットは真っ赤な爪を眺めて言った。
 だからこそバーボンは名前を疑っていた。その精神状態を。彼女のスコッチへの入れ込みようを間近で見ていたのはバーボンくらいのものだったから、彼らは今の名前に疑問を持っていない。だがバーボンは違う。名前の依存具合は相当なものだった。スコッチにも苦言を呈したほどだ。距離が近すぎじゃないか、と。名前という名を彼女に与えたのもスコッチだった。彼はそうだなと言ったけれど、改善はされなかった。心を擦り減らす生活にスコッチも疲れていたのだろう。拠り所を求めるのは不思議ではない。だとしても、やはり二人を引き離すべきだった。
 そういった後悔があったから、名前に声をかけられた時、一瞬目を逸らしてしまった。彼女は傍目には何も変わっていないように思われた。少女らしいが色のない声に、鋭い狼の目。「私の家に来てほしい。……話があるの」抑揚のない科白に、バーボンは腕を組んだ。「僕がそうまでする理由はないんですが」名前には悪いが、バーボンには果たすべき使命がある。彼女にかかずらってはいられない。しかし踵を返そうとしたその足を止めさせたのは、やはり名前だった。
 「スコッチのことよ」彼女は確かにそう言った。バーボンの顔が強張る。それは彼女の口から出た名前だけが原因ではない。そう言った名前の声が――あまりに甘やかで、無邪気で、宝物を見せるような秘めやかさがあったからだ。
 なぜそんな声で名前を呼べるんだ。考えているうちに彼女の家に着いてしまった。ブロードウェイから一本入ったところにある共同住宅の一室。名前は扉を開けると、「ようこそ、バーボン」と手を広げた。
 室内はひっそりと静まり返っていた。家具の少ない部屋であったが、テーブルの上にはティーセットが置かれていた。一見するとなんでもない風景。しかし、中身の入ったカップが2つ並んでいることに違和感を覚える。彼女は一人暮らしのはず。今まで名前が外出していたことを考えると来客があったとは考えにくい。
 訊ねる前に、名前が口を開く。「今まで黙っていてごめんなさい」彼女はテーブルの脇に立ち頭を下げた。顔を上げた彼女は心底申し訳ないといった様子で、「でもあなたにだけは教えなくちゃと思ったの」とバーボンを見上げた。
 ――彼女は、何を言っているんだ?
 胸の前で手を組み、許しを乞う少女。健気とも表現されそうなその姿に、薄ら寒いものを感じる。胸騒ぎ。それは予感のような曖昧なものではない。もうすぐそこまで迫ってきているのが分かった。
 「嬉しくないの?」名前は視線を走らせ、困ったように首を傾げた。彼女の目は誰も座っていない椅子の上で止まっていた。そこに誰かが座っているかのように、彼女は話し続ける。「驚いてるから……そう、それなら仕方ないか。確かに私も最初は言葉が出なかったもの。でも喜んでもらえなきゃ寂しいわ」

「せっかく、スコッチが生きてたって教えてあげたのに」

 その瞬間、バーボンはすべてを理解した。

「そうか、スコッチが……」

 そう言って浮かべた笑みは随分とぎこちないものになっていただろう。それでも名前は満足したらしい。目を潤ませ、唇を噛み締めていた。

「あ、あなたには言わなくちゃって、だってスコッチはあなたのこと心配してたから、だからきっとあなたにもスコッチは必要なんだって、スコッチはいなくなっちゃダメだって、」

 嗚咽まじりの言葉をそれ以上聞くのは堪えがたかった。咄嗟に、バーボンは名前を抱き締めていた。
 名前は組織の人間だ。利用価値がある、だからスコッチもバーボンも彼女に近づいた。でもスコッチはそれだけで終われなかった。バーボンは彼を止められなかった。そしてスコッチは死に、名前も死んだ。

「すまない……っ」

 バーボンの振り絞るような言葉の真相を名前は知らない。知らないままでいさせてやろうと思う。それが2人の手で殺された少女へのせめてもの贖罪であった。