組織崩壊後、赤井の元に転がり込む

 約束もなしに他人の家に押しかけるのはまずい。そんな常識くらい、さすがの名前も心得ていた。けれどその時の名前にはアポイントメントを取ることなどできなかったので、結果として赤井のホテルに押しかけるという形になってしまったのは非常に申し訳なく思う。……思うのだが。

「……あなたでもそんな顔するのね」

 この時の赤井の顔といったら!頬はいつになく青白く、目は野性を忘れ、あんぐりと口を開けていた。彼とは数年来の付き合いになるが、この時までハンバーガーを食べるより大きく口が開くのを見たことがなかった。名前の手に携帯があったら1枚2枚といわず写真に収めていたろう。

「驚くな、と言う方が無理な話だ」

 ふうっと紫煙を吐き出し、悠然と足を組む。衝撃は過ぎ去ったらしい。つまらないの。名前は彼の向かいのソファで膝を抱えた。と、すぐに注意が飛んでくる。「女がそんな恰好をするんじゃない」妹を持つ男は口煩い。名前は口を尖らせたが、素直に座り直した。

「それで?どうして俺のところに来た」

「あなたに会いたかったから?」

「吐くならもっとマシな嘘を吐け」

 赤井の手が犬を追い払うように振られる。手厳しい。「騙されてくれたっていいじゃない」そう言うと、赤井は笑った。それも鼻で。だのに彼がやると様になるのだから手に負えない。かっこつけ。これでFBIはたらしこまれたのね、と名前は毎度毎度思う。彼女が思い浮かべるのは金髪の女とがたいのいい男の二人。そういえば、彼らは元気だろうか。

「あなたは元気そうね。早死にしそうな趣味してるのに」

「鍛え方が違うんでね」

「……10年後、どうなっても知らないから」

「怖いな」

 まったくそうとは思っていない口ぶり。名前がねめつけても、赤井は呑気に灰を落としている。灰皿には吸殻とマッチ。未だに古風な火のつけ方をしているのか。そういうところもかっこつけだと感じる要因の一つだ。
 少し屈んだせいで、大きく開いた襟ぐりから胸元のラインが覗いていた。見るとはなしに見ていると、赤井と視線が合う。なんだ、と問う目。「べつに」名前は目を背けた。羨ましいとかそんなことは思っていない。断じて。

「あなたもそんな恰好をするのだなあ、と」

「……?おかしなところはないと思うが」

 両腕を水平に上げ自分の身体を眺めた後で、赤井は首を捻った。
 「おかしい、なんて言ってない」おかしいといえば組織に潜入していた頃の方がよほど怪しげな身なりをしていた。ひれのようなものがついた黒いコートとか裂かれすぎたダメージジーンズとか。ニット帽や長髪も相まって、当時の赤井は不審者にしか見えなかった。

「あなたが帽子を取ってるの、初めて見たから」

 今日の赤井はTシャツにハーフパンツという非常にラフな格好をしていた。もちろん頭にニット帽もない。長髪だったのも過去の話だ。とはいえ、上も下も真っ黒なのは相変わらずだったが。
 赤井は自分のファッションにはとんと興味がないらしい。「そうだったか?」どうでもいいといった調子。もしかして、と名前の頭に一つの仮説が浮かぶ。もしかして、いつも黒ずくめなのは面倒だからなのかしら。この暑苦しい日本でも?
 名前が疑いの目を向けている間にも、赤井はまたひとつ紫煙を吐いた。薄く立ち上る煙。「それで、」ヘーゼルグリーンが名前を射抜く。

「どうして俺のところに来た」

 先刻と同じ質問。だが声音はより硬いものになっていた。逃亡は許さない。そんな顔。
 なんだっていいでしょう。わざわざ聞き出す必要なんてないじゃない。そう言ったとしても、赤井はすぐに言葉を重ねるだろう。その内容も名前には容易に想像がついた。「どうして彼のところに行かなかったんだ」と。赤井ならそう言うと名前には分かっていた。そう言うくせ実のところはすべてお見通しだということも。この問いがただの確認であることも。彼は銀の弾丸。オオカミを暴き立てるもの。だからこそ名前はここに来たのかもしれない。赤井なら、見抜いてくれるから。

「……負担に、なりたくないの」

 この一言だけで。

「彼は君が思うほど弱くはない」

「けれど強くもない。それはあなたも知っているでしょう」

 赤井は深く長い溜息を吐いた。「……そうかもしれないな」やはり彼は聡明で、そして溜息が出るほどやさしい。
 外では蝉の鳴き声が響き渡っていた。グラスの中の氷は音を立てて沈み込んだ。なのに不思議なほどの静寂が2人を包んでいた。
 名前は窓の向こうに目を馳せた。高層ビルの建ち並ぶ街。特別美しいものではなかったけれど、名前は目を細めた。真昼の太陽に照らされるこの街が愛おしいと思う。それはきっと彼と同じ感情だ。

「どれくらい滞在する予定だ?」

 暫くして、赤井はそう言った。形のいい額にはらりと前髪が落ちる。

「5日ほど」

 いいかしらと言わなくとも、赤井は「分かった」と頷いた。優しい男だ。そんな優しい彼が来日しているのは、もしかすると墓参りのためかもしれない。こんな季節だもの。たくさんの人を喪ってきたであろう男がわざわざ日本に来ているのも納得がいく。

「組織が瓦解したことでそれなりに時間があるからな、君に付き合ってやる」

「……ありがとう」

「だが来年もこうなるとは限らんぞ」

 煙草を灰皿に押しつけて、赤井は口端を上げた。つられて、名前も口元を緩める。

「来年も同じ時期に来るかは分からないわ。次はハロウィーンにお邪魔するかも」

「勘弁してくれ」

 眉間に皺が寄る。そんな赤井を見るのも新鮮で、名前の顔は綻ぶばかり。

「嫌なら撃ち抜けばいい。今度はあなたの弾丸で」

 トンと自分の胸を指で示す。すると赤井は悪い冗談だと肩を竦めた。「君が欲しいのは俺のじゃないだろう」まさしくその通り。名前の叶えられなかった願いは、彼の手で死ぬことだったから。「でもそれは叶えられなくてよかった」彼のことを思えば、そんなちっぽけな願いなんかどうだっていい。いま望むことはただ一つ。

「……もしものときは、零のこと、助けてあげて」

 属するものの異なる相手に頼む内容じゃない。分かっていたけれど、名前が願える人間は限られていた。
 優しいヒーローはこれにも頷いた。「祟られたくはないんでね」なんて軽口を叩きながら。