春の信仰T
あの日。あの世界で、確かに名前は空へと還った。
それに間違いはないはずなのだけれど。
『あ、ダメよ観音坂さん。いくら明日が休みだからって、スーツのまま横になったりしちゃ』
「うるさい……わかってるって……」
なのに彼女はまだ独歩の元にいた。夢から醒め、ままならない現実へと戻った後も。
半透明の体で、口煩く独歩の世話を焼いていた。
『まったくもう。しようがないんだから……』
一回りも歳が違うというのに、名前はそれを感じさせない。やれやれと歳上ぶった様子で大仰な溜め息を吐いた。ーーとはいえその体が透けているのに変わりはないのだが。
意識を取り戻した当初、独歩は自分の頭がおかしくなったのかと思った。事故の後遺症。一番に思い浮かんだのはその言葉だ。自分以外の誰の目にも留まらない半透明の少女なんて、幻覚だとしか思えなかった。
退院から数ヵ月が経った今もその可能性はある。たぶん彼女が見えなくなるまで疑いは晴れないだろう。
まるで幽霊のような少女。とはいえそれはあまりに非科学的で、現代社会に生きる独歩には常識を捨て去ることがどうしてもできなかった。
『せめて床で寝るのだけはやめてちょうだい。これじゃ休まるものも休まらないわ』
「うわ、わかった、わかったから!引っ張るな!!」
『それじゃあ自分で起き上がって。さぁ、』
例え彼女が世間一般の幽霊像から外れていようと。半透明なくせ、何故だか独歩にだけは触れられようと。
ーーまったく、一体どうなってるっていうんだ。
口煩い名前にせっつかれ、廊下で脱力しきっていた独歩は仕方なく身を起こした。
体は半透明の癖にやたらと自己主張が激しい。一二三が不在の時は尚更で、独歩は頭を押さえた。
「なんで幽霊の尻に敷かれにゃならんのだ……」
溜め息を吐きたいのはこっちの方だ。
一二三が留守にしている夜は独歩だけのもので、つまるところ悲しくなるほどに静かだった。名前が居座る前だったら、それが当たり前だった。
『私だって好きでしてるわけじゃないよ。観音坂さんがあまりにも……放っておけないから』
「そうかよ……」
やっとのことでリビングまで辿り着き、ソファに体を投げ出す。心地よい冷たさ。強張っていた筋肉がほどけていくのがわかる。
「あぁー……疲れた……」
もう疲れたという言葉しか思い浮かばない。疲れた、疲れた。呟くたび、この一週間のあれこれが脳裏を過った。あまり楽しくはない記憶たちが。
『お疲れさま。今週もよく頑張りました』
ともすれば暗い思考に沈みそうになる意識。それを掬い上げたのは名前だった。
ふわふわと宙を漂う彼女が独歩の頭を撫でる。幼い子供を褒めるみたいに微笑んで。偉い偉いと言いながら、遠慮なしに独歩の頭を撫でた。
伝わる温もり。人間らしい感触。柔らかさ。目を瞑ると、彼女が本当にそこにいるような気がしてくる。ーーそう、思いたかった。
「あぁ……、ありがと」
だから独歩は目を閉じたまま身を委ねた。もう長いこと忘れていた優しい掌に。幼い頃に戻ったような心地で、素直に答えた。
『観音坂さんはすごいわ。今日も急な仕事を任されてたけどちゃんと終わらせてきたし』
「便利屋扱いされてるってことだろそれ……。まぁ頭を下げるのだけは得意だからな……はは、笑えてくる……。いや、そもそも俺がもっと要領よければ……」
『あぁ、またそうやって自分を責めるんだから……。そういうの、今日は禁止ね。せっかくの金曜日だもの』
言うつもりのないこと。これまでなら独り言として吐き出していたそれを、名前は嫌な顔ひとつせずに受け止める。受け止めて、独歩を慰めてくれる。欲しい言葉を、与えてくれる。
「わかったよ……」
柔らかな胸に抱かれながら。なんと都合のいい夢だろうかと独歩は思った。いつでも味方でいてくれる、見目麗しい少女。これが悲しい中年男性の妄想でなくてなんだというのか。
『楽しいことだけ考えましょ。お酒を飲むのもいいし、明日は昼過ぎまでたっぷり眠れるし……。久しぶりにどこかに出掛けるのもいいんじゃない?』
「そうだな……。とりあえず何も考えずに寝たい……眠り続けたい……」
けれど、それでいいじゃないかとも思う。人間に夢は必要だ。その夢がどれほど自堕落なものだろうと構わないじゃないかと独歩は思った。