恋人は近くに
目覚めた独歩を迎えたのは、見知らぬ天井と見知った友の泣き顔だった。
「よかった、独歩が目を覚まして……!俺、マジでどうしようかって、」
「だからってこんな大袈裟な……」
「大袈裟じゃねーって!」
子供みたいにぐしゃぐしゃに崩れた顔。これじゃナンバーワンホストの名が泣いてしまう。
しかしこれが一二三なりの友愛表現なのだ。彼は本当に友達想いで……そういう性格だと知っているから、独歩は大泣きする幼馴染みを呆れつつ、同時に申し訳なくも思っていた。
「悪い、一二三、迷惑かけたな……」
「そう思うんなら、もう二度とこんな無茶すんなよぉーー!」
バカ、と胸を叩かれる。けれどそれは独歩の体を気遣った、ひどく軽いもので。
「…………、」
「独歩?」
「いや……、なんでもない」
じゃれ合いながら不意に思い出す。少女の鈴を転がしたような声を。真剣な眼差しを。「忘れないで」と希われた夜のことを。
『忘れないでね、それだけは。あなたの大切な人のこと、真偽も善悪も越えた美しきもののことを』ーーそう言った少女はもうどこにもいやしないのに。
「どうしたよ独歩、やっぱ疲れてる?よな、……よし!せっかくだし思いっきり休んどこ!な!」
「あぁ、うん……そうだな。疲れてる……んだと思う」
曖昧に笑み、それから。
「ありがとな、一二三」
真っ直ぐ、かけがえのない友の顔を見て。
らしくもなく真剣に伝えると、一二三はやはり虚を突かれたという風に目を丸くした。
それはすぐに細められ、そして。
「なんだよなんだよ!こんな素直な独歩とかありえねーって!」
照れるだろ、と笑う友に「そうだな」と頷く。そうだな、思っていても口に出さない言葉なんて山ほどある。けれどそれではダメなのだと独歩は思う。それではーーいつ伝えられなくなる日が来るのかわからないのだから、と。
もう二度と触れることの叶わない少女の微笑を思い出して、独歩は苦々しく笑うのだった。
あの朝、独歩は駅のホームから落ちた……らしい。人混みに押され、転び出た少女を助けようとして支えきれず、独歩まで。
そこまでは確かに独歩の記憶と合致している。落ちていく少女の見開かれた目も。救いを求めて喘ぐ指先も。それを掴んだ瞬間の、ほっと緩んだ表情も。独歩はすべて、覚えていた。
けれど、問題はその後のことだ。少女の手を掴んだ後のことがとんと思い出せない。気づいたらベッドの上だった。
だから名前の両親だという人に頭を下げられた時にはひどく慌てたものだ。何せ独歩には巻き込まれたという自覚もなければ、昏倒するまでの記憶も欠けているのだから。
「こりゃあ独歩の日頃の行いの良さが効いたんじゃねーの!?……まぁ、その子のことは残念だったけどさ」
独歩が気に病むことじゃない。そう、一二三は気遣うけれど。
「あぁ……」
独歩には後悔があった。もっと他の道があったのでは、と。
もしもあの時、彼女を支えきれていたら。……もしもあの夜、彼女の手を掴むことができていたら。
そう、ありもしない未来をどうしても考えてしまった。
「けど一二三、俺が無事だったのはただの偶然じゃないと思うんだ」
「というと?」
不思議そうに首を傾げる一二三がおかしくて、独歩は笑う。
これは二人だけの秘密だ。独歩と、名前だけの。二人だけの夢の話。二人しか知らない世界の話。
ホームから落ちた後、独歩は気を失っていた。しかし幸いなことに目立った外傷はなく。落ちた時に頭を軽く打ちつけた影響から一時的に昏倒していたのだろうと医者は診断を下した。
ーーではなぜ独歩だけが軽傷で済んだのか。
それは簡単な、けれど独歩には信じがたい理由であった。
ホームには列車が迫っていた。非常停止ボタンは間に合わず、電車が止まったのは二人を通り過ぎた後であった。
だが、独歩は助かった。落ちた後で、運よくホーム下の避難スペースに転がり込んだお陰で。奇跡的に助かったのだーーそう聞かされても、記憶のない独歩には実感が沸かないのだが。
だから、独歩は思う。
「……俺なんかにも微笑んでくれる神様はいるってこと」
奇跡みたい、なんかじゃない。これは奇跡そのものなのだ、と。
美しきものに神が宿ると言うのなら。普遍的な美こそが人を救うというのなら。
独歩にとっては間違いなく、名前が神であった。
ーーあれは、常世と現世の狭間だったのだろう。
列車に揺られながら、そんなことをぼんやりと考える。休日に賑わう人々の中、流れる平穏な景色を眺めながら。過ぎ去った夏の残滓に想いを馳せた。
駅を出ると、爽やかな風が吹きつけてくる。そこにはかつてあった熱はない。当然だ、もう秋も半ばを過ぎたというのだから。
独歩は道中買った花束を抱え、一二三から教えられた道筋を辿った。
目的の場所は存外すぐに見つかった。というのも、最近手を加えられたであろうそれを見れば一目瞭然であった。
「久しぶりだな、名前」
ざぁっ、と。答えるみたいに風が吹き抜けた。落ち葉はヴァイオリンの如く啜り泣き、もの寂しく音を奏でた。葬送行進曲。世界がその死を悼んでいるみたいだった。
「『げにわれは うらぶれて ここかしこ さだめなく とび散らふ 落葉かな』か……」
口ずさみ、苦笑する。いつかの夜、名前と奏でた詩。同じ詩人でも、こうも違う響きとは。
そんなことを考えながら、独歩は墓石に手を添えた。
ひんやりと冷たい感触。人らしい柔らかさも温もりも欠けたそれ。その下に名前が眠っているなんて変な話だ。だって彼女はあんなにもーー人間らしかったというのに。
「そうだ。花、買ってきたんだ。お前の好みなんて分からないから適当に選んだんだけど……文句は言わないでくれよ」
白と桃色の小ぶりな花。蜂蜜に似た甘い香り。
ブッドレア、というらしいその花を選んだのに深い理由はない。なんとなく目に留まった。それだけだった。けれど風にそよぐ儚げな容貌がーー名前に似ていると思った。
それを供え、静かに手を合わせてからーー独歩は白々と聳え立つ墓碑を見つめた。
「神なんて身勝手だーーって言ったけど、お前も大概だったな」
文句を言っても返事はない。
でも独歩の耳許では声がした。『あら、酷い言い草ね』と。からからと笑う少女の声が聞こえたような気がした。
「酷いのはお前だよ、……勝手に助けて、勝手にいなくなって」
それが幻聴でも構わなかった。だって存在の証明なんて独歩にはできないのだから。“それ”は独歩がそこに“ある”と思えば存在するのだから。
だから独歩は目を閉じ、声に耳を澄ませた。
『しようがないじゃない。私がそうしたかったんだもの』
「それが身勝手だって言うんだよ」
『美しい自己犠牲と言ってほしいな。死は人を美化するものだし』
「……そうだな」
独歩は苦笑した。
そうだな、確かに名前の言う通りだ。まだ半年も経っていないというのに、独歩の中であの夜は日毎に神聖さを増している。これなら名前が独歩の神になるのも時間の問題だろう。
そう言うと、名前は呆れたように溜め息を吐いた。『ここは突っ込むところでしょう?』あなたが乗ってどうするの、と。口を尖らせている様が容易に想像できた。目を開けなくとも。
『まったく、二ヶ月も待たせておいて……言いたいことはそれだけ?』
「いいや……」
独歩は首を振り、それから。
「…………、」
ある詩を読み上げた。できたばかりの、他の誰にも聞かせたことのなかった詩を。ーー少女を想って書かれた詩を、朗々と読み上げた。
最後の一節が風に溶けて、しばらく。
どうだったろうかと独歩が不安を覚える頃、空気が震えた。
『……ありがとう』
と。もの悲しい響きでもって彼女は応えた。ありがとう、約束を果たしてくれて。
『残念だけど、もう思い残すことはないみたい』
「……そうか、」
不思議と朗らかに言ってのける名前に、独歩の胸は詰まる。
そうか、やはりーー。
その予感を確信に変えるように、想像の中の名前は手を振った。
『じゃあね』と。まるで明日また会えるみたいに。あの繰り返す夜のように。なんの気負いもなく名前は手を振ってーー独歩に背を向けた。
そして、独歩は。
「……、」
伸ばしかけた手を引っ込めた。あの時とは違い、明確な意思を持って。唇を噛みながらも、名前を見送ることを選んだ。
目を開けると、目前には先刻と変わらぬ墓碑が黙したまま立っていた。返事はない。語りかけても、もう。
「お前は、夢だって言ったけど……」
それでも独歩は言葉を続けた。今は残滓すらない少女に向けて。
「俺は夢だとは思わない。だってあれも含めて連続した日々だったから。あの夜も今も、ひとつも変わらないーーどちらも俺にとって必要なものだったから」
夢と認識するのが目覚めた後ならば。独歩は未だ夢をさ迷っていることになる。外側の“独歩ではない”独歩が夢を見る夢を見ていたのだと。
ーーだが、だからどうだと言うのだろう?独歩の世界の限界は独歩の知覚する世界だけでーーその外側のことなど知ったものか。
だからあれは夢ではなかった。間違いなく、独歩にとっては現実だった。そこで起きたこと、思い出、すべてが今の独歩へと繋がっていた。
ーーだからもう、平気だ。
「さよなら、名前」
最後にもう一度。冷たい石に触れ、独歩は墓碑に背を向けた。そして歩みを進めた。一度も振り返ることなく。けれど忘れることもなく。
また会う日まで、と新たな約束を誓い、独歩は日常へと帰っていった。