元武官、婚姻の報を聞く


 始まりは、ある朝のことだ。

「……ふぅ、」

 日課の見回りに出た天化たちを見送り、人心地ついた名前の元に、

「蝉玉ちゃんから重大発表があります!!」

 嵐が襲来した。

「もうすっごく大ニュース!!きっと名前も驚くわ!」

「は、はぁ……」

 高らかな宣言。
 扉を蹴破る勢いで邸を訪った蝉玉は、その勢いのままに名前の肩を掴んだ。そしてついでとばかりに前後に揺らす。お陰で名前には思考する隙すらない。呆然と。事態を呑み込めないという表情で、されるがままになっている。
 だというのに蝉玉は止まらない。

「ねぇ知りたい!?知りたいわよね!そうよね!!」

「そうですね……?」

 名前は流される。ただひたすら、言葉の渦へと。
 誘導される形で頷いたのだけれど、それでも蝉玉は満足したらしい。堪えきれない。そういった風でにんまりと笑うと、

「じゃーん!!!」

 効果音つきで、何かを懐から取り出した。
 それは一枚の紙切れだった。少なくとも名前にはそうとしか見えなかった。蝉玉の名前と土行孫の名前。それが蝉玉の筆跡で書かれている。
 これが一体どうしたというのだろう?
 訝しむ名前に、蝉玉は「わからない?」とうずうずした様子で言う。そうして勿体をつけた後で。

「あたし、�ケ蝉玉は!結婚することになりましたっ!!」

 その声は、邸を抜け、窓の向こうの青空にまで朗々と響き渡った。ついでに言えば、名前の脳内にも。
 蝉玉。土行孫。結婚。それぞれは単語として理解できるのに、頭の中では結びつかない。驚きのあまり麻痺する頭では呑み込むのに数秒の時間を要したのだ。
 けれどようやく。ようやっと蝉玉の言葉の意味を理解し。そして名前は、
 戦場でも上げなかったような驚嘆の大声を上げて目を剥いたのだった。

「先程は狼狽した姿を見せてしまい申し訳ないです……」

「いいのよいいのよ、驚くのも無理ないし」

 榻に座った蝉玉はからからと笑う。そんな彼女の前に名前は茶器を並べた。事が慌ただしく進み、お茶すら出していなかったのだ。そしてそれに思い至りもしなかった。
 恥ずかしいところを見せてしまった。この歳になり、昔に比べたらだいぶ落ち着きも出てきたと思っていたのに。
 頬を赤らめる名前だったのだけれど、蝉玉は気にした風もない。むしろそれを喜ばしいとばかりに歓迎していた。

「あの、それで……結婚するというのは理解できましたけど」

 蝉玉の向かいに腰掛け。名前は気になっていたことをそっと切り出した。

「その紙はいったい……?」

 彼女の見せてくれた紙切れ。蝉玉と土行孫の名と、それから赤い印が押されているそれ。
 婚姻届、と上部には書かれているが、生憎と名前には見覚えがない。西域の名前が知らない文化だろうか。
 首を捻る名前に、蝉玉は呆れたように「知らないの?」と言う。

「最近のトレンドよ。今時はこうやって結婚の証を立てるの」

「え?納采をしないのですか?」

「もちろん。聞名も納徴もね。めんどくさいことは全部なし。これ一枚で結婚したことになるの」

「便利な世の中になりましたね……」

 婚姻とは。本来男性側からの行動に依るところが大きい。礼物を贈るのも男性からであるし、吉凶を占うのも男性の役目だ。
 だから名前は蝉玉が結婚をするというのに驚いた。何せ行動を起こす側である土行孫にその気が見られなかったから。
 けれど文化とは名前の知らぬ間に移ろうらしい。いつの間にやら蝉玉にとって都合がいい方に変わっていた。
 とはいえ印が押してあるということは土行孫の了承も取れたのであろう。それが多少強引なものであったとしてもーー名前が口を挟むことではない。

「……おめでとうございます、蝉玉さん」

「えへへ……、ありがと」

 名前には、親友の笑顔が一番であったから。
 嬉しそうに、そして気恥ずかしそうに蝉玉は笑う。微かに赤らんだ目許。弓なりに細められる目。その顔からは幸せだということが如実に伝わってくる。そしてそれは、名前へも。

「結婚式はなさるのですよね?日取りは?」

 自然と声を弾ませ、名前は訊ねた。
 結婚式。言葉にするとそれだけで胸が熱くなる。名前の兄弟はまだ誰も結婚をしていなかったし、名前自身も縁遠いものであったからーーこんなにも充足感をもたらすものだと知らなかった。
 珍しくもうきうきとした様子を露にする親友に。

「ちょっともう、はしゃぎすぎ」

 呆れた風を装いながら、しかし蝉玉もまた笑みが隠しきれない。

「まだ決めてないの。報告したのも名前が一番だし。吉日にしようってことしか考えてないわ。あぁあと、天候もね。どうせなら雲ひとつない晴天がいいわ」

「それはもちろんですよ。やはり吉凶は大切ですから……」

 そう言いながら、はて土行孫は何をやっているのやらと名前は心の内で思った。
 文化は移ろう。とはいえ女性ばかりを働かせるのは如何なものか。せめて日取りくらいは占っておけばいいものを……と。
 しかしこれもまた名前が言うことではない。蝉玉に不満はないようだし、もしかすると土行孫はその手のことが不得手なのかもしれなかった。

「では僭越ながら……わたしが占っておきましょうか?皆に報告するのはそれからにして……」

「ほんと!?助かるわ!」

 そっと申し出る。と、途端に蝉玉に両手を掴まれた。「持つべきものは親友よね!」いつか聞いたような科白を添えて。蝉玉は名前の手を振った。

「それじゃあまた連絡ちょうだいね!!とりあえずあたしは衣装の準備に取りかかるから!」

 そして蝉玉は慌ただしく去っていった。
 それを微笑ましく見送った名前であったのだが。

「そういえばお伝えするのは蝉玉さんだけでいいのかしら……?」

 吉凶を占ったとして。その報告は土行孫にしなくてもよいのか。結婚するのは彼だって同じだろうに。
 そう思い至り、少し悩んだけれど。

「……蝉玉さんから伝えてもらえばいいか」

 名前はひとり納得し、土行孫へ直接報告するという選択肢をなくしてしまった。
 これが後に彼の涙の原因、そのひとつとなるのだが……
 親友の幸福に目が眩んでいた名前には考えつきもしなかった。