ねずの木の話T


 そして私はページを捲った。




 私には血の繋がらない家族がいる。
 父と兄。母と私。再婚家庭である私たちには決定的な隔たりがあった。
 それでも幼い時は平和だった。父も母も穏やかに笑っていた。そんな記憶がある。
 けれど私たちが長じ、父が不慮の事故で亡くなってから、ーー母は変わってしまった。血の繋がらない息子、つまり私の兄を疎んじるようになったのだ。
 理由はわからない。ただ母は私が兄と親しくしているのすら許せないらしい。

「お兄様、はい……、」

「あぁ、ありがとう」

 だから私は母が眠った夜半、兄の部屋に忍び込む。母に隠れて作りおいた夕飯を兄に届けるために。

「ごめんなさいお兄様……、こんなところにあなたがいていいはずないのに」

 部屋、といってもそれは名ばかりで。埃っぽい小さな檻は物置と言った方が正しい。部屋は余っているのに、兄はこんな窮屈なところに押し込められているのだ。
 なのに兄は。

「泣かないで、名前」

 自分のことなんてどうだっていいみたいな顔をして私の頬を撫でた。そして慰めるような口づけを目元に落とした後で。

「ねぇ、名前。名前は僕のことが好きでしょう?」

「ええ、もちろんよ」

「ならば某に不満などありませんよ」

 うそつき。
 そう思ったけれど、私は何も言わなかった。だってそれはきっと優しい嘘だから。私を守るための幻想。だから、私は何も言えなかった。ただその細い体に身を寄せることしか。想いを証明することしか私にはできなかったのだ。

「ね、お兄様、お話ししてちょうだい」

「いいですよ。では今日はロトが娘たちと洞穴に住むところから……」

 私たちは小さな箱庭の中。体を寄せ合って、束の間の安息を得るのを日々の喜びとしていた。
 ……そんなある日のこと。

「……お兄様?」

 母から頼まれたお使い。それを済ませ帰宅した家には兄の姿がなかった。そう、どこにも。家を出る前は確かにいたというのに。

「お母様、お兄様はどこに行ったの?」

 兄のことを訊ねるのは気が引けた。たぶんいつもなら聞くことすらなかったろう。
 けれどこの時、私の胸には予感があった。ざわめき。おののき。そうした類いものが私の足元には広がっていた。
 母は言った。さぁね、と。気のなさそうな声であったけれど、その目がほんの少しだけ窺うような色をしたのに私は気づいてしまった。
 私はまんじりともせず兄を待った。けれど兄は帰らなかった。夜になっても、次の朝日を迎えても。
 母は言った。お父様の実家に帰ったそうだよ、と。私はすぐに嘘だと思った。だって母の嘘は兄よりずっと下手だったから。
 だから私は理解した。

 ーーあぁ、お兄様はもうこの世にいないのだわ。

 理解した途端、私の目からは涙が溢れていた。とめどなく、いつまでも。主のいなくなった小さな箱庭で、私は兄の匂いに包まれて泣き続けた。
 お兄様は死んだのだ。きっと、お母様に殺されて。その亡骸すら弔われることなく、土の下に押し込められたのだ。
 想像して、私はまた泣いた。なんて悲しいこと!あんなに素敵な人が迎える最期じゃない。そんなのあんまりだ。
 でも、と私は思った。でもきっと神様は見ていてくださっているわ。きっとお兄様に永遠のいのちを与えてくださるに違いない。この苦難に満ちた地上での生を終え、永遠の楽園へと招かれたのだ。ーー私の知らない、場所へと。
 そう考え、私は少しだけ胸が痛くなった。試練ばかりが与えられていたお兄様。彼にその幸いがもたらされるのは当然のことなのに。
 お兄様が私の知らないところに行ってしまったというだけで、私はひどく切ないような気持ちになったのだった。