ねずの木の話U


 その翌朝。

「あら、何かしらこの声は」

 朝食を囲んでいた私の元に、美しい歌声が届いた。
 それは聖歌だった。『いつくしみ深き友なるイエスは、罪とが憂いを取り去りたもう』その有名な歌詞は、けれど何故だか普段とは違う響きを持っていた。音色は変わらない。なのに、どこかーーそう、ほの暗さを纏っていた。

 ーーこれを歌っているのはどんな人なのかしら。

 気になって席を立とうとした私を、母は引き留めた。

「どうかなさったの、お母様……」

 そう言いかけて、私は驚いた。
 私を掴む手。それは痛いくらいに強く、しかしそれを指摘するのを躊躇うほどに震えていた。
 そして何よりその顔といったら!青ざめ、唇を戦かせる母。それはいつもの気の強い様子からは想像もできないほどに頼りなく、私は心配になった。
 しかし母はそれ以上を言おうとはしなかった。ただ私に行ってはダメときつく言って、なのに外の様子を私よりも気にしていた。決して窓の向こうを見ようとはしなかったけれど、鍵のかかったドアを憎しみの籠る目で睨みつけていた。
 私はといえば。
 そんな母の様子が気にかかっていたのは確かだけれど、それよりもこの歌声の主の方が気になって仕方なかった。
 どうしてかしら?自分でも不思議に思うくらいに、心が浮き足だっている。それはもう、踊り出したいくらいに。今すぐ飛び出したくてたまらない。いや、そうしなくてはならないのだ。
 だって、この声は。

『名前、』

 名前を呼ぶ声。柔らかで、温かくて。いつだって私を甘やかしてくれた、蕩けるような声。
 それはたったひとりしかいない。この世でたったひとりにしか許されていない。私の一番大好きな人。

「……お兄様っ!!!」

 引き留める手を振り払い、私は駆け出す。もう箱庭に鍵はいらない。閂を外し、そして私は。

「お兄様、会いたかった!すごくすごく、会いたかったの……」

 私は口づけた。家の前、ねずの木の枝から舞い降りた一羽の小鳥に。
 翡翠の羽。美しい碧色。それはどこからどう見てもカワセミにしか過ぎない。
 それでも私は直感的に理解した。
 ーーこの小鳥はお兄様だ。
 神の愛がこうして有り得ない再会をもたらしてくれたのだ。
 はらはらと涙を溢す私に、小鳥はそっとすり寄った。泣かないで。そう慰めるみたいに。
 だから私は気づかなかった。再会に喜ぶ私からは母の存在が抜け落ちていた。
 だから、

「……っ!」

 大きな音。重いものが落ちて、何かが潰れる。そんな嫌な音がして、振り向いた私の視界に。
 母、だったものが倒れていた。

「お、母様……?」

 それは臼だった。大きくて重たい臼。それがどこからか落ちて、玄関の前に転がっていた。
 ーーその下に、人がいるのも気づかずに。
 私はふらふらと歩み寄る。臼の下、紙切れみたいに倒れた人影へと。

「あ、あぁ……」

 それは母だった。記憶にある、最後と同じ服を着た母。けれどそう、その顔はもう判然としていなくてーー

「……見てはいけません」

 私の目を覆う掌。温かな腕が背後から私を包み、真っ赤な視界から目を逸らさせた。
 それは覚えのある温もりだった。ーーお兄様。喘ぐように呟いた私を、彼は力強く抱き締める。私が倒れてしまわないよう、きつく、きつく。
 抱き締められ、私の意識は遠く霞んでいった。

 次に目覚めた時、私は見慣れたベッドの上にいた。そしてそんな私を覗き込むのはこれまた見慣れたーーなのにたった一日で懐かしいとすら感じてしまう顔だった。

「お兄様……、」

「よかった、気がついて。もう起き上がれますか?」

 お兄様は本当に嬉しそう。目を細めて私の背に手を回す。
 そうして促されるがまま身を起こした私だったけれど、

「あの、お母様は……」

 過るのは真っ赤な体。ひしゃげた顔。一気に血の気が引いた私の頬を、兄は優しく撫でた。

「忘れなさい。あのようなもの、あなたに相応しくありません」

「でも、」

 お兄様はあのような惨劇を目にしたというのにひどく冷静だった。
 ーーいや。
 それは冷静というのではない。そのほの暗い目!温度すら感じられない冷酷な眼差しに、私は身を震わせた。
 そして同時に理解した。

 ーーお母様を殺したのはお兄様なんだわ。

 それはごく自然のことだった。兄を虐げた母。兄を殺めた母。復讐されるには十分すぎた。

「……どうしました、名前?」

「あ……っ、」

 それでも、私の体は拒んでしまう。
 ーー殺人は罪だ。決して許されぬ、原初からの罪。
 怯え、目を逸らす私に、けれど兄は静かに語りかける。

「ねぇ名前、名前は僕のことが好きでしょう?」

「好きよ、もちろん。でも、でもね、お兄様……」

 罪は償わなければならない。
 そう言った私に、兄はどうして?と首を傾げる。

「どうしてって……」

「だって名前、これは解放のために必要なことなんですよ。ほらモーセだってエジプト人を殺したじゃないですか」

「でもそれは悔い改めて神に認められたからで……」

 食い下がる私に、兄は「ふむ」と間を置いた。
 そうしてから、彼は。

「では小生が神に選ばれたのだとしたら?」

 驚くべき言葉を紡いだのだ。
 ーー兄が、神に。
 その言葉に私は声を失った。俄には信じがたい。けれど私は確かに奇跡を目撃している。今、この瞬間にも。
 だから、兄の言葉を嘘と断じることができなかった。そうすることこそが神に背いているのかもしれない。そう考え出した私には言うべきことが見つからなかった。どうしたらいいのかすら。
 惑う私に、兄は優しく言葉を続ける。

「深く考えることはないのです。だって現に某は咎められていない。これこそが神の意思なのですから……」

 兄の言葉は魔法だ。あるいは薬。劇薬は私の耳から体へと回り、終いには脳すら麻痺させていく。
 次第に私は兄の言うことが正しいような気がしてきた。だって例え兄が罪人になろうと、私が彼を愛していることに変わりはない。もしも荒野をさ迷うことになったって、兄と一緒ならば大丈夫ーー

「そうよね、お兄様」

「ええ、はい……」

 兄は笑いを噛み殺しながら、そっと私の身を横たえた。
 ーーどうして?
 その問いは、兄の唇に溶かされていく。

「覚えていますか、ロトとその娘たちの話を」

「ええ、彼らは血統を正しく繋ぐために子を成したのよね」

 答えながら、私は同時に諒解した。兄はきっとロトになるつもりなのだ。そして私はその娘たち。
 ーーそれで本当にいいの?
 近親婚は悪だ。少なくとも私はそう思っている。思っているから躊躇った。
 けれどその躊躇すら兄の手でほどかれていく。何もかもを忘れさせるみたいに。兄は優しく、しかし強引さも滲ませて事を進めていった。
 それでも私はもう抵抗しなかった。ただ頭の中でほんの少しだけ思う。
 ーーもしかしたら。
 もしかしたら、母はこうなることを予期していたのかもしれない。だから私が兄に近づくのを厭がったのかも。
 でももう手遅れだ。だって私の胸にはこんなにもーー兄への愛しさが溢れているのだから。