ナランチャと


 息が上がる。足が縺れる。

「……はっ、」

 それでも名前は止まるわけにいかなかった。止まってしまったらそれで終わりだった。そうわかっているから、名前は一心に走り続けた。暗闇の中、土地勘もない町を。

「……っ、」

 ただひたすらに走る名前であったけれど、相手にとってはそんなのどうでもいいことだ。
 獲物をいたぶる猫のように。敵は簡単に止めを刺そうとはしなかった。決して逃さないという意思は感じるのに、同時に狩りを愉しんでいるという気配もまた同じだけ知覚できた。
 けれどそれは名前にとっても幸運なことだった。

「…………、」

 断崖絶壁。追い詰められ、しかし名前は秘かに笑んだ。
 これは賭けだ。しかも分の悪すぎる賭け。一か八か。ーー生か死か。天秤は大きく後者へ傾いている。
 それでも、諦めるわけにはいかなかった。
 だから名前は飛んだ。この日、遠い異国の地で。両親や友人、大切な幼馴染みの顔を思い浮かべながら。
 名前は、暗い海へ身を投げた。



 朝の冷たい空気を感じ、名前は目を開ける。
 早朝。故郷と同じくらいの冷え込みに、すべては夢だったのではと錯覚する。けれどそれはもう慣れたことで、隣で健やかな寝息を立てる少年によって意識を引き戻されるのもまたいつものことであった。

「おはよう、」

 未だ深い眠りに落ちる少年。その頬に挨拶のキスを落とし、名前は重い腰を上げる。いかにベッドが心地好かろうと、安寧に浸るばかりではいけないのだと名前はよく知っていた。
 開いたカーテン。射し込む真白い光に目を細める。ーー今日もいい天気になりそうだ。それだけで名前の足取りは軽くなる。たぶんきっと、すべてはよい方向へいくはずだ。そう自分に言い聞かせて。

 イタリア、カンパニア州ナポリ。粗悪品を売りつける悪徳業者やスリの横行する都市はお世辞にも治安がいいとは言えない。とはいえナポリ全域がそうというわけではなく、少なくとも名前が住む町は人通りも多く、昼間なら一人で歩くのにも心配はなかった。
 それも偏にこの町を守るマフィアがブローノ・ブチャラティだからであろう。
 マフィア、パッショーネ。その構成員の一人である彼は年若い青年でありながら熱い志を持つ男だった。町の住人にも慕われ、彼もまた皆を愛するーー正しく『名誉ある男』であった。
 だから彼のために働くことはなんの苦でもない。ある理由によりパッショーネに入団した名前であったが、入ったのが彼のチームでよかったと心底思うのだ。

「んん……、もう朝……?」

「ええそうよ。ボンジョルノ、ナランチャ」

 そしてそれは目の前の少年ーーナランチャ・ギルガが名前を拾ってくれたお陰でもある。
 寝ぼけ眼で目を擦る彼に、名前は微笑む。それからその手を引いて、ベッドから起き上がらせた。

「ふあぁ……ねむ……」

 それは幼い子にしてやる仕草だった。けれどナランチャが気にすることはない。堪えることなく欠伸を洩らし、むにゃむにゃと唇を動かした。その体は名前になされるがまま。反抗の色はなく、そうしたところに忘れたと思っていた名前の母性は刺激されるのだった。

「もう、しゃんとしないと。今日は礼拝に行く日なんだから」

「えぇ……、オレはいいよォ……」

「よくありません。もうっ、ブチャラティだってちゃあんと毎週行ってるんですからね」

「ううん……、」

 ブチャラティ。その名にナランチャはとことん弱い。名前が面白くなるくらい。だからいつもいつも名前は彼の名前を持ち出すのだけれど、それに毎度毎度釣られてしまうのがナランチャという少年であった。
 「ブチャラティが行くんならしょうがないよなァ……」ぶつぶつと呟き、またひとつ大きな欠伸。その背を洗面所へと押してやりながら、名前は続ける。

「さ、顔を洗って着替えをして。そしたらすぐすっきりするわ」

「うん……」

 蛇口を捻り、タオルを用意し。横から口ばかりでなく手まで出してもらい、そうしてからようやくナランチャは朝食の席に着いた。

「いっただきまーす!」

 その頃にはもうすっかり彼の目も覚めていて、常と変わらぬ輝きをその深い色の中に宿していた。
 それを反対側の席から眺め、名前は微笑む。何てことはない日常。その象徴となった少年の無邪気な笑顔はいつ見ても飽きない。ずっとこの笑顔を見守っていられたらいいのにーーそうらしくもなく名前に思わせるほど。

「そうだ、今日は買い物に行きたいの。手を貸してくれる?」

「もちろん!」

 ジャムをたっぷりつけたコルネット。それを貪りながら頷くナランチャに、名前はまた笑みを溢す。「ありがとう」そう言い添えるのは忘れずに。
 スーペルメルカート、もといスーパーマーケットは割合祖国のものと似ていた。一番の違いといえば惣菜売り場が対人形式なところくらいだろうか。とにかく殆どの時間を日本で過ごしてきた名前としては、こうした施設があるのは大変有り難かった。

「それじゃあさ、夕飯はオレの好きなのにしてくれよ!」

「いいわよ、それくらい。それで?あなたは何が食べたいの?」

「えっと、そうだなァ……」

 言い出したのは彼のくせ、決まったものはないらしい。「パルミジャーナもいいし、クロケットも食べたいな」指折り数える姿は本当に子供のよう。たかが夕食ごとき。決めかねて頭を悩ます様子は微笑ましいと言わざるを得ない。
 ……と言うと、フーゴやアバッキオ辺りから「甘やかしすぎだ」と眉をひそめられてしまうのだが。

「礼拝が終わるまでには決めておいてね。別に今日全部食べなくったっていいんだから」

「でもさァ……、そう言われると“どうせなら”って気になんない?」

「だとしても。……いいじゃない、幾らでも作ってあげるから」

 言い聞かせると、やっとナランチャも「わかった」と答えてくれる。しかしその頬や口元にはジャムが彩られていて。
 名前はまた「もう、」と呆れた風を装いながら、その顔を拭ってやった。

「えへへ……。ありがと、名前」

「どういたしまして。さ、カプチーノを飲んだら出掛けましょ」

「うん!」

 明るい笑顔に目を細め、差し出された手に応える。
 石畳の町は朝のほんのり冷たい気配に包まれていた。けれどそれも直に温められ、穏やかな春の一日となるであろう。今日もきっと、平穏な日に。
 それがよいことであるのか。はたまた悪いことであるのか。
 イタリアの町に馴染み始めてしまった名前には、答えの出せない問いであった。