フーゴと


 三月八日。石畳の町が黄や緑といった色に染められる頃。春の始まりに町行く人の足取りは軽い。そしてそれは名前にとっても例外ではなく。

「〜〜〜♪」

 あちこちに黄色のミモザが飾られた通りを、名前は鼻唄混じりに歩いていく。
 けれど浮かれているのは何も名前だけではない。
 フェスタ・デッラ・ドンナーー女性に花を贈るのが習わしのこの日、町は常以上の活気を帯びていた。
 とはいえ皆が皆この日を楽しみにしていたというわけでもなく。

「……あんまり浮かれてると転びますよ」

「あら、フーゴ、」

 呆れたような声をかけてきた人。少年と青年の狭間の彼は、その歳に見合わぬ落ち着いた眼差しを名前に向けていた。
 それは同い年の仲間を見るものでは到底なく。どちらかと言わずとも年少者へーーそれも手のかかる子供に向けるような、そんな色合いをしていた。
 だが名前は気にしない。「ボンジョルノ」と慣れた素振りで朗らかに挨拶をして、彼の元へ歩み寄った。

「あなたもお買い物?それともお仕事かしら?」

「いえ、強いて言うなら前者ですね」

「強いて?面白い言い回しをするのね」

 くすくすと肩を揺らすのを見て、フーゴの目も和らぐ。そうしているとやっと“それらしく”なるのだけれど。しかし然り気無く名前の背に手をやり、エスコートする体勢に持ち込むところを見るとーーやっぱり大人びているとしか思えないのだった。

「どうかしました?」

「いいえ、ただ……そうね、私があなたくらいの時はもっと呑気だったものだなぁと懐かしくなって」

 スパッカ・ナポリ。入り組んだ下町通りを並び立って歩く彼。日に透ける淡い色の髪を眺め、名前は眩しげに目を細める。
 それは未だ無垢な、そしてどこか懐かしい雰囲気を醸し出していた。名前が本当に子供だった頃。旅の途上で見上げた光のように。
 そう過去に思いを馳せていると、フーゴは「何をバカな」と無邪気に笑った。

「あなたこそおかしなことを言いますね。どう見積もったって僕より歳上じゃないでしょうに」

「ふふっ、グラツィエ!」

 彼の言葉が世辞でないことは名前自身が一番よく知っている。“そう”あるようにーー敵の追跡を躱すためにーー自分にスタンド能力をかけたのだから。
 とはいえ精神は実年齢のまま……というのが普通だろう。だが名前の場合、心というものは体に引き摺られるらしく。自身に年相応の落ち着きというものが身についていないこともまた名前は理解していた。
 だからそう、フーゴの言葉は二つの意味で当たっていた。心も体も、名前の時間は十七歳で止まったままーーいつまでも過去になることがなかった。
 そう、物思いに沈みかけた名前を。

「ねぇ、あなたが浮かれている理由、当ててみせましょうか?」

 引き上げたのは、フーゴの言葉だった。

「あら、わかるの?」

「ええ、というか明日の天気より当てるの簡単ですよ、これ」

 彼はまた呆れた風で溜め息を吐く。と、名前の額を人差し指で小突いた。

「花を貰ったんでしょう、ナランチャから」

 彼は。名前の喜びの理由だけでなく、その喜びを齎した人の名前まで見事当ててみせた。簡単だ。そう言った言葉を裏切ることなく。

「その通りよ、よくわかったわね」

 でも小突くことはないじゃない。
 さしたる痛みはなかったけれど、抗議はしなくてはならない。でないとそれが当たり前になってしまうのだから。
 と、頬を膨らませた名前であったけれど、不満そうなのはフーゴも同じだった。

「大体あなたがご機嫌になるのは彼の仕業と相場が決まっていますから」

「そうかしら……?」

「ええ、絶対に」

 自分ではわからない。けれどフーゴに断言されるとそうだったかなという気になる。そもそも名前とフーゴでは記憶力に純然たる差があったし、その面でいえば名前が彼に異論を唱えることは不可能と言えた。

「でも、ねぇ?それっていいことじゃない?みんな仲良く、なんて夢物語みたいでしょう?」

 名前は手を広げる。仄かな甘みを纏った風に髪を靡かせ。スカートの裾が翻るのも気にせずに。ーー幼い少女のように夢を手繰った。

「仲が良いのは構いませんが。あなたのは度が過ぎているように思います」

 しかしそれを一刀の元に切り捨てるのがフーゴという少年だ。彼はちっとも揺るがず、躊躇わず。名前の夢を夢と切り捨てた。
 だが名前としては納得がいかない。

「そう?」

 度が過ぎている、というのはかつての自分と幼馴染みのようなものではないだろうか。お互いに過去を映し合い、慰め合うだけの不毛な関係。友人というにはあまりに悲しい一時は、さすがの名前だって「これではいけない」と思い直したほどだ。まぁありふれた恋愛ドラマみたいに、そこに惚れた腫れたの感情がなかっただけまだマシではあるが。
 ……なんてのは名前の事情を知らない彼には関係のない話で。

「……だいたい。いつまで彼と一緒に住んでる気ですか。これじゃナランチャはあなたに甘えるばかりだ」

 彼の言っていることは、端から見れば正論だったろう。甘やかす名前と甘やかせるナランチャ。それは母子や姉弟といった関係に近く、恐らく彼にもそのように映っていたに違いない。
 ーーけれど。

「……それは違うわ、フーゴ」

 名前は。俯きがちに微笑むと、緩やかに否定の語を紡いだ。
 そうじゃない。実際のところ、本当はーー、

「甘やかされているのは私の方。ああして役割を与えられることで、ようやく私は私という存在を定義できているのだから」

「名前……」

「だからね、フーゴ。もう少しだけ見守っていて。きっと私も一人で歩いていける、そんな気がするの。この町でなら」

 言い終えた名前を、彼は暫しじっと見つめた。真意を探るように。奥底を浚うような目で見つめ、そしてーー。

「……わかりました」

 やがて、降参とでも言うかのように両手を挙げ、やれやれと息を吐いた。しようがない。そうありありと空気に滲ませて。
 引いてくれた彼に、名前は「ありがとう」と笑みを向けた。

「ところで。その話を持ち出したということは期待してもいいのかしら?」

「……あなたは今十分満足してるでしょう?」

「あなたからも貰えたら十二分に満足するわ」

 悪戯っぽくその顔を覗き込む。と、途端に彼は言葉に詰まり、目をさ迷わせた。
 「あー」とか「うー」とか。そういった意味のない語をらしくもなく唇から洩らし。
 そうした後に、「〜〜〜ッ、あぁ、もうッ!!」と叫んだ。

「わかった、わかったよ!買えばいいんだろ買えば!!」

 怒ったように言い、色とりどりの花咲く屋台へと駆けていくその横顔は。

「……こういうとこは年相応なのね」

 少年らしく色づいていて、なんだか名前はホッとしてしまったのだった。