夜郎国


 四川盆地と広西盆地の間。貴州高原にその国はあった。
 夜郎国ーーその中を流れるいくつもの河川。そのひとつに小舟を浮かべ、太公望と名前はある場所へと向かっていた。

「この労力に見合うだけのものがあるとよいのだが」

「それはそれでよい経験ではないですか」

「……まぁおぬしがそれでいいのなら」

 切り立った崖が居並ぶ両岸。濃緑色の川を進む小舟。その櫂を操るのは名前で、その顔に微塵も疲れは浮かんでいない。むしろわくわくとした様子で。
 漕ぐのを代わろうかと言い出そうにも固辞されてしまいそうな気配がありありと滲んでいた。
 ーーこれでは格好がつかぬではないか。
 そう太公望は人知れず溜め息を吐いたのだけれど。楽しげな空気に水を差すのも憚られた。

「あ、あれが噂の……ですかね?」

「ん?あぁ……」

 そうこうする内。朱塗りの橋を潜り、しばらくした頃。二人の進行方向に、大きく口を開く洞窟が現れた。
 それはさしたる幅はなかった。けれどその奥。洞窟の先は暗く、どこまで続いているかはようとして知れない。

「本当に行くのか……?」

 太公望は及び腰で訊ねた。ごくりと唾を飲み込んで。果たしてこの先に何があるのか。ーー何か、得体の知れないものが出てくるのではなかろうか。
 それが生きているものでも生きていないものでも太公望は御免だった。未知との遭遇などというものは望んじゃいないのだ。
 けれど名前は好奇心旺盛な質らしく。

「ええ、せっかくここまで来たのですから……」

 期待に目を輝かせ、それからふと表情を曇らせた。
 太公望を窺う目。気遣いに満ちた眼差し。一度言葉を切った名前はそろりと口を開く。

「あの、お嫌でしたら引き返しても……」

「いや!平気だ!」

 揺れる瞳に。咄嗟に答えてしまってから、太公望は「しまった」と思った。
 しまったーーもう少し余裕を持って答えるべきであった、と。こんな食い気味に答えてしまっては、はい、そうですと言っているようなものだ。
 彼女の前では、主人公らしく格好つけていたいというのに。
 しかし現実は変えようがなく。名前が心の機微に疎いほど鈍感なわけもなく。

「ええっと……、」

 太公望の意思を尊重すべきか。それとも、と迷う名前に。

「……、いいから行くぞ!!」

 気を遣われるくらいなら、と太公望は彼女の手から櫂を奪い取ると、勢いよく漕ぎ出した。

「た、太公望どのっ!?」

 声を上げる彼女を無視して舟は進む。否応なく、流れに沿って。
 小さな舟は大きく開いた口の中に呑まれ、そうして。

「……っ!」

 一瞬の暗闇。その後にパッと明かりが灯る。名前が火打ち石で火をつけたのだ。
 それから、ゆらゆら揺れる明かりにぼうと浮かび上がる周囲を見渡し、そして。

「すごい……」

 その神秘的な様子に息を呑んだ。
 体を包む冷ややかな空気。氷柱のように垂れ下がる鍾乳石。そしてそれを映し出す澄んだ水面。上も下も躍動する鍾乳石に埋め尽くされ、自分が今どこにいるのかさえ不確かになる。
 ーーけれど、不思議と不安はなかった。

「色々な形があるものですね……、これは龍かしら。面白いわ」

 朱色が燃やす少女の輪郭。名前を大人にも子供にもしてみせる陰影。
 ちろちろと薄明かりに照らされる面立ちはどこか艶めいてすら見えるのに、しかし石に幻想を見つける瞳はあまりに無邪気だった。

「あっ、太公望どの!」

「ん?」

「あれなんてスープーどのに似ておりませんか!?」

 袖を引く名前の目。瞳に宿る煌めきはさながら北極星のようで。

「太公望どの?」

「……あぁ、確かに。あの丸い辺りなんかはそれらしいな」

「でしょう!?」

 意識が惹かれてしまうのは必然と言えた。そう、あまりに眩しかったから。ーー仕方のないことなのだ。
 出会った時からもう何年の月日が経ったろう。旅に出てからどれほどの時間を共に過ごしたろう。
 けれど初めて会った時からーー初めて太公望の手を取った時から、名前はちっとも変わっていない。敵わないと、昔も今も思わされる。
 今が暗がりでよかった。その輝きに惹かれ、無意識の内に詰めた距離も。我に返って、密やかに身を起こしたのも。目線が合わぬのにも、気づかれずに済んだ。
 だから名前は明るい声のまま。松明をある鍾乳石に近づけ、それをためつすがめつ眺めた。

「ですが似ているのはやはり形だけですね、あの柔らかさは少しも表現できておりません。さすがの『天下第一の水洞』もそこまでは至っていない様子……」

「そうか?結構それらしいではないか」

「そんなことないですよ。ほら、」

 名前の意識は鍾乳石にいっているはずだった。
 だから太公望は不意を突かれたのだ。その温もりに。闇の中、伸ばされた手に。
 触れられ、心臓がざわめいた。

「ね、やはり生きた温もりには敵いませんよ」

「……それは当然だろう」

 ようやっと言えたのは、そんなつまらない台詞だった。
 微笑む名前から目を逸らし、ーー重なる掌の柔らかさだとか、思いの外細く頼りない指先だとか。そうしたかつてならば気にしなかったであろうことから意識を引き剥がしてーー呆れた風を装った。

「そういう当たり前のことが大事なんですよ、だからこうして時々思い出さないと」

 それに答える名前の声音は、冗談を言っているようであった。けれどその目、その眼差しは。どこか憂いを帯び、遠くに馳せられた目はーー

「そうだな」

 とても笑い飛ばせるものではなかった。そう思ったから、太公望はその手を握り返した。この暗がりの中、自分たちはーー自分はここにいるのだと。そう伝えるために。

「……、」

 名前は何も言わなかった。言わなかったけれど、その指先が微かに震えたことや、応えるように籠められた力だとかが何よりも雄弁に語っていた。