テン国2


 テン国には様々な少数民族が暮らしている。
 その中のひとつ、タイ族。彼らの祭り、撥水祭が近く行われるらしく、太公望たちは「とりあえずそこまでは」と宿を取っていた。元より目的のない旅だ。物珍しいものは見ておかねば損だろう。
 そして祭り当日。タイ族にとっては正月だというその日、太公望は名前に腕を引かれ通りを歩いていた。

「待て待て!そう引っ張るな」

 人でごった返す大通り。その中を名前はするすると抜けていくが、見ている方は冷や冷やしきりだ。
 だから太公望は止めようとしたのだけれど。

「まぁ!そんなこと言っていたら祭りが終わってしまいますよ」

 そう言って太公望を振り返る名前の目といったら!
 子供のようにきらきらと輝いていて、太公望は一瞬言葉に詰まる。彼女のこの表情に太公望はとことん弱いのだ。それはもう、自分でも呆れるほどに。
 だが、だからこそ踏み留まるのも手慣れたもので。
 歩調を緩めさせ、殊更悠然と肩をそびやかした。

「終わらん終わらん。おぬしも聞いたであろう?こやつらは日暮れまで騒ぎ倒すと」

「ですが乗り遅れるのは面白くありませんから」

「おぬしは一体何と戦っておるのだ……」

 しかし想定外なことに名前は食い下がった。彼女の瞳の奥。いつもは月の如き静けさを持つその目には、確かに焔が揺れていて。
 水掛け祭りといっても勝負事ではないというのに、名前は燃えているらしい。負けず嫌いな彼女らしいといえばらしいが……見守る側としてはハラハラせずにはいられない。
 どうやら今日も心穏やかには過ごせそうもないなーー
 予感を抱きつつ、しかしそれが嫌ではない自分を認めーー太公望は密かに笑うのだった。



 高らかに鳴り響く祭りの音。華やかな民族衣装に身を包む人々。
 その合間をすり抜け、辿り着いた先。大きな河の岸辺にはあちらこちらで水飛沫が舞っていた。
 撥水祭ーー別名水掛け祭では、互いに水を掛け合うことで体を清めるのが決まりである。新たな年の始まりに災いを退け、この一年の幸いを祈るのだ。だからこそ水は掛けられれば掛けられただけ善いということで。

「なんだこれは……全身ずぶ濡れではないか」

「よいではないですか、なんだか童心に返ったようで」

 思いの外。勢いよく水を被った太公望は、濡れそぼった裾を摘まみ上げた。そうするとだけで滴り落ちる水。地面はすっかり色を変え、元の姿を失っている。
 だというのに、名前はころころと笑い声を立てる。鈴を転がしたような軽やかさで。太公望までもが釣られて表情を緩めてしまうほどに眩しい笑顔を浮かべていた。

「しかし女人がこうも水を被っては……風邪を引くではないか」

「あら、仙道はそんなにヤワじゃない……って以前太公望さん仰ってませんでしたっけ」

「……それはそれ、これはこれだ」

 名前の返しに。太公望はむっつりと唇を引き絞り、懐から辛うじて無事だった手巾を取り出した。
 叶うことなら今すぐにでも宿に戻って着替えさせたい。……ところだが、それでは名前を悲しませるだろう。伝え聞いたこの行事を太公望が教えてやった時から彼女はこの日を楽しみにしていたのだから。
 だから、仕方なしに太公望は名前の顔を拭った。せめてそれだけでも、と。柔らかな輪郭に手を走らせ、朝露のように宿る水を拭き取った。

「……ありがとうございます」

 それだけ、なのに。
 なのに名前は目許を綻ばせた。たったそれだけのことで。心底嬉しそうに、幸せそうに、頬を染めるのだった。

「……まぁ、この状態は仕方ない。諦めて進もう」

「はい」

 悟られぬよう。そっと視線を外し、太公望は通りの向こう、広場の方へと目を馳せる。目当ての行事がそこで行われているというのは事前に確認済みだ。それに広場に向けて年若い男女の姿も増えてきている。これは間違いないだろう。
 という考えすら内に秘め、今度は太公望が名前の手を引いた。しとどに濡れたその膚を。それでもこれ以上水を浴びることのないようにと、然り気無く彼女の身を守りながら、太公望は慎重に進んでいった。

「わっ……、すごい人ですね。それも男女の組合せばかり、」

「あぁ……」

 広場には。彼女が指摘したように、年若い男女が二人一組となって方々でざわめいていた。
 彼らの会話に耳を澄ませた名前は、「どうやら求愛の行事のようですよ」と囁いた。

「あちらで配っている球をお互いに投げ合うようです」

「ほう、世の中には変わったイベントがあるのう」

 飄々と嘘を吐き。初めて聞いたと嘯いた太公望は、未だ周りを観察する名前を置いて、係りの者から件の球を受け取った。
 布でできた掌大の球。菱形のせいで球という感じは薄いが、他の参加者を見る限りこれを投げ合うので間違いはないのだろう。
 まぁ別に、行事の内容など太公望にはどうだって構いやしないのだが。

「太公望さん?」

「せっかくだしやってみるか」

 え、と。上がる戸惑いの声を聞き流し、太公望は名前から距離を取りーー。

「ほっ、」

 そうして、彩球を名前に向けて放った。
 弧を描いて落ちていく彩球。不意を突かれた格好となった名前であったけれど、周の武官であった彼女がその程度で怯むはずもなく。

「やりましたね、太公望さん!」

 元来負けず嫌いな質である彼女は、危なげなく彩球を拾い上げると。間髪入れず、太公望に向かって投げつけた。
 ーーこれは、勝ち負けを競う行事ではないのだが。
 お互いに落とすことなく球を受け止める。それがこの行事の基本であり、周りの誰一人として本気をぶつけてはいない。皆力を抜き、相手が取りやすいようにと球を放っているのだ。
 だというのに。名前だけが目を輝かせ、勢いよく彩球を投げつけた。

「……まったく、なんでおぬしはこうもわしの意表を突くのだ」

 恐らく常人であれば取り零すどころか触れることさえ叶わなかったろう。だが太公望は仙道で、何より名前の大先輩として無様な姿を見せるわけにはいかなかったからーーなんとかそれを受け止め、それからやれやれと溜め息を吐いた。まったく、思い通りにならない。いつだって太公望を振り回すのが名前という少女で。

「ですがこれで証明されました!太公望さんくらいです、わたしの求愛を受け止められるのは」

 太公望をこの上なく喜ばせるのもまた、彼女という存在だった。

「……そうだな。おぬしに付き合いきれるのは早々おらんだろうよ」

 太公望は脱力し、彼女と顔を見合わせて笑った。お互い濡れ鼠、だというのに気分はおかしなほど晴れやかで。

「だが祭りはまだ終わっていない。……ほれ、」

「……なんです?」

 太公望はおもむろに手を伸ばす。先程水を拭ってやった時のように。けれどその時とは違う目的を持って。彼女の耳、その付け根の当たりにそっと手をやった。
 名前にも感触だけは伝わったのだろう。だが今何が起こったのかはわからない。太公望の行動を訝しみ、触れたところに手を伸ばそうとする。

「こら、あまり弄るな。せっかくの花が落ちるだろう」

 それを押し留め、太公望は種明かしをしてやった。この行事はただ彩球を投げ合うだけでないということ。想いを交わした後に、男は花を、女は手巾を贈り合うのだということを。教えてやると、名前はさっと顔色を変えた。

「まさか太公望さんは最初から知って準備を……!いえそれよりもわたし、何も用意が……」

「いい、いい。わしが勝手にしたことだ。……こうでもしなくては花など贈れんからな」

 最後の方、呟きは狼狽える名前の耳には入ってこなかったらしい。幸いなことに。
 そう、彼女の言う通り。太公望は最初から知っていた。今日この行事が行われるのも。その内容も。上手く事が運べば、名前を着飾らせてやることができるのも。すべては太公望の計略であった。
 そして名前はといえば。

「うう……、ごめんなさい、こんなものしか……。一応まだ使ってはいませんから……」

 半泣きで手巾を取り出すと。申し訳ないとはっきり書かれた顔で、おずおずと手を差し出した。
 これでは釣り合いが取れない。周りの者たちは皆この日のために用意したものを贈っているというのに。
 名前がそう考えているのは太公望にはわかっていた。彼女はそういう人であるから。
 だからこそ太公望は優しく笑い、「ありがとう」と応えた。
 その時掠めた指先。その温もりが今自身に向けられているーーそれが何よりの幸福だったから。贈られるのが使い古しの手巾だろうと真新しいそれだろうと一向に構わなかったのだ。

「ですが絶対に代わりのものをご用意致しますから!ええ!今すぐにでも!!」

「わしはこれでも構わんが」

「なりません!何よりわたしが納得できませんもの!」

 だが生真面目なのも彼女の性質のひとつ。
 意気込む名前に、太公望は内心「さて、」とこの後のことに考えを巡らす。
 実のところ、用意しているのは花だけではない。着飾らせる。そのためには今日という日は絶好の機会で。つまるところ太公望は替えの衣装をこの後手配する心積もりであった。何よりも自分のために。

「では一先ず宿に戻るとするか」

「そうですね、」

 さて名前はどんな顔をするだろうか。
 頭の片隅で考える太公望の前。ふと立ち止まった名前は振り返り、「太公望さん!」と声を上げた。

「ありがとうございます!!」

 笑みを刷く少女の顏。陽に縁取られた輪郭。弧を描く睫毛には光の鱗粉が舞っていて。
 なんてことない日常の一片であるはずなのに、太公望にはひどく眩しく映った。

「礼を言うのはわしの方だ」

 独りごち、心に焼きつける。ツツジの花を髪に差し、微笑む少女の姿を。
 この先気が遠くなるほどの時が流れようとも忘れることのないように、と。