太公望、面倒な部下を迎える


 ーー西岐の軍師となってほしい。
 そう請われ、物憂げに頷いた太公望であったが、自室に退いた後、その表情は霧散した。

「な……っ、」

「あら、遅かったわね。待ち草臥れたじゃないの」

 太公望に割り当てられた部屋。それは本来個人的な空間であり、いかに西岐城といえどーー否。であるからこそ、他の者が断りなしに立ち入ることはできない。それが見知らぬ顔となれば、なおのこと。
 だが今。たった今、太公望の前にいるのは記憶にない少女だった。
 歳の頃は太公望と同じくらいか。少女から一端の女への過渡期のただ中にいるであろう娘子。であるが、その双眸には市井のそれにはない深遠なる色が横たわっていた。恐らくは仙道ーーなのであろう。
 不意を突かれ。しかし目を見開いたのはほんの寸刻。瞬きほどの早さで思考を巡らし見当をつけ。平静を取り戻した太公望は「おぬしは何者だ?」と油断ならぬ目を刷いて、窓枠に腰掛ける娘へと視線をやった。

「わしらと同じ仙道……であろうが。しかしどこの出かわからぬことにはのう……」

 おちおち話もできぬ、と。飄々とした態度を繕いながら、太公望はそっと周囲に意識を巡らした。四不象とは姫昌の元へ訪う際に別れてしまった。武成王も未だ主君の元へ座しているであろう。
 が、武吉ならば。耳聡い彼のことならば、太公望がひとつ声を上げるだけで異変に気づいてくれるはずだ。そもそもここは西岐城。太公望らの本拠地であるのだから、いかな実力者といえどむざむざやられはしまいーー。
 つまるところ。太公望が気にかけていたのは娘が敵か否かということ、ただ一点であった。
 のだけれど、娘にはそれが気に障ったと見え。

「なんだ、聞いてなかったの」

 浮かべられたのは見事なまでの顰め面。それすらも気位の高そうな面立ちにはよく映えてはいるが、故にこそ太公望の中に嫌な予感が首をもたげる。
 ……面倒なことになるのではないか。
 その予感は正しく、また娘子の気質も見た目通りのものであった。

「私は名前。出身は崑崙山。ついでに言うなら普賢真人の愛弟子ってところかしら。……どう?満足した?」

 ふんと鼻を鳴らす様はどこぞの女主人かと見紛うほど。彼女の言を信用するならその師は普賢真人ということになるが……水と油ほども気質がかけ離れているように思われる。
 だから太公望は「普賢の……?」と訝しんだ。自身の記憶を浚うよりも先に。まずは今紹介されたばかりの娘の方を疑った。
 が、それが余計に癇に障ったと見え。

「ま、そうよね。貴方のような御立派な方が私みたいな下々の者にまで気を配る必要なんてないもの。いいのよ、御存じなくったって。ええ、まったく気にしていませんから」

 嫌味たらしい口調で矢継ぎ早に言うと、それでもまだ足りないとばかりに娘はふいと顔を背けた。明らかにご立腹の様子。暴れ馬よりも質の悪い、というか扱いづらい娘に、太公望は頭を抱えた。

「おぬしそんなんでよく普賢の弟子をしていられるのう……」

「私だって普賢様には……いえ、師匠には恭順です。当然じゃない、あの方は本当に素晴らしい御方だもの」

 普賢真人。その名を出した瞬間、娘の表情が変わる。恍惚とした、夢見がちな少女の目に。
 ほうと吐く息は深く、甘く。蜜の如き風合いをしていた。そして瞳から零れるのは憧憬と羨望。羞じらいを知らぬ幼子のような純粋さ、真っ直ぐさで感情を露にする娘に。

「…………、」

「……何よ」

「いや、普賢を真に慕っているのだと思ってな」

 驚いたのは間違いない。そして旧き友が良き師弟関係を築いているのだということに心が穏やかなもので充たされたのも、また。
 感慨深いものだ。と、しみじみ呟いた太公望に、次に目を丸くしたのは娘の方だった。

「な、何よ、別に……普通のことじゃない。なんで貴方がそんな……」

 しどろもどろに。狼狽える姿は存外に年相応のもの。そこに害意の類いは最早露と消え、あるのは困惑の色ばかりである。
 だからこそ太公望の思考も冴えていく。唐突な来訪者に思いの外動揺していたらしい。が、それも先刻まで。

「おお、そうか。思い出したぞ。おぬし、名前と言ったか。以前普賢から弟子を迎えたと聞いたことがある」

 元より聡明な頭脳は落ち着きを取り戻せばなんてことはない。忘れていたのが嘘のように、記憶の引き出しはあっさりと見つかった。
 そう、確かに娘ーー名前と会うのは今日が初めて。初対面であることに変わりはないが、まったくの無知というわけでもない。話にだけは聞いていたのだ。普賢真人とは長い付き合いがあるし、彼が十二仙の一人となった現在でも疎遠になった過去は一度としてない。

「ちょっと、さっきまで全然知らないって……」

「忘れておったのだ。仕方なかろう、このところ立て込んでおったし、さすがのわしも昔のこととなると記憶がな……」

 とはいえ既に聞き及んでいることは確か。彼女が何故ここにいるのかはわからぬがーー恐らくは楊ゼンらと同じような経緯があったのであろうことは想像に難くない。だから彼女も太公望が記憶にない様子なのを見て気分を害したのだ。
 ーーと。考えていた太公望は決まり悪げに頬を掻いた。
 ……のだけれど。

「う、嘘。え、待って、貴方、師匠から何を聞いて、」

「別に大したことではない。が、普賢は随分楽しそうだったのう……。確かおぬしのこともなかなか褒めておったぞ。覚えがいいとか向上心があるだとか……」

「う……っ、」

「ああ、後は努力家だとも言っていたな。陰ながら研鑽に励むのがいじらしいとかなんとか」

「や、」

「いやしかしすまなかったな。普賢に言われてこちらに来たのであろう?封神計画に手を貸してくれるならばわしとしても心強い」

 友人の弟子だというのが真実であると判明した今。太公望は既知の者にするような笑顔を浮かべて娘の頭に手をやった。「これからよろしく頼む」言う声音は気安く、親愛さえ滲ませて。
 けれど堪らなかったのは娘の方である。

「ち、調子のいいこと言わないで!ていうか忘れなさい!!今すぐ忘れて!普賢様の言ったこと、今すぐに!」

 手を払いのけ。掴みかからんとする勢いで言う娘の顔は、 日の下では隠しようもないほどに赤く。

「なんだおぬし照れてるのか?」

「う、うるさいっ!」

その羞じらいをどうにかしようと躍起になる余りに柳眉を逆立てているが、太公望には効果など一分たりともなく。
 すっかり形勢逆転。揶揄う太公望に怒気を孕ませる娘であったが、こうなってしまえば太刀打ちできまい。抗議に胸を叩いてくるが、そこにはさほど力も入っていない。

「も、もう記憶を消すしか……っ」

「ま、待て待て。その拳はなんだ?いや、言わずともよい。静かにそれを下ろすのだ」

「私に指図しないでちょうだい!!」

 拳を握り、振りかぶろうとする娘であったけれど、その細い腕が太公望の頭に下ろされることはついぞなく。
 代わりに爪が食い破りそうなほど掌を握り締め、歯噛みし。

「いいこと!?私は決して、決して貴方に力を貸しに来たわけじゃないんだから!普賢様に言われて仕方なく来ただけなんだから!!」

 わかったわね、と。叫ぶこと一頻り。太公望の眼前に人差し指を突き立て宣言すると、娘は脱兎の如く逃げ出した。無論、出入り口の方は太公望が塞いでしまっていたから、逃走経路は大きな窓である。
 娘は窓枠に足をかけ、軽やかな身のこなしで階下へと降り立つと石畳を駆けてどこぞへと消えていった。

「嵐のような娘だな……」

 それを見送り、太公望は溜め息混じりに独りごちる。
 手綱を握るだけで苦労しそうだ。こんなことなら普賢から事前に取扱い説明書でも貰っておくべきだった。いや、今からでも遅くはないのでは……?
 ーーそう、今後を憂う太公望は気づかなかった。

「あぁ、緊張した……。どうしよう、何話したか全然思い出せない……。ていうか私、変なこと口走って……あぁ、そうだ、普賢様が余計なことを……」

 敵前逃亡した娘の頬の赤みがただの羞恥によるものだけではないことに。足を止め、遥か後方へと遠ざかってしまった太公望の自室へと向ける眼差しが潤んでいることに。

「でも間近で言葉を交わしたわ……」

 そう呟いた声が甘やかに色づいていることに。
 素直になれないという娘の生来の気質を知らぬ太公望には、いずれも気づく余地のないことであった。