道士、押し掛け部下になる


 世界の果てまで見通す水鏡には、ひとりの青年の姿が映し出されていた。

「また太公望師叔を見ているのですか、普賢様」

「名前、」

 夢中になっていたのか、或いは思いを馳せていたのか。
 心ここにあらずといった風の師は、名前が声をかけたことでようやく振り返った。
 崑崙山に差す穏やかな陽光。日溜まりは普賢真人の艶やかな髪に落ち、もうひとつの天使の輪を作り上げていた。
 なんとも幻想的な風体。彼こそが皆が憧れてやまない仙人、その具現化といってもいい。そう名前が思うほどに普賢真人は容貌から心まで、そのすべてが清らかで正しかった。
 だからこそ、名前は顰め面を作る。彼の心を揺らす者の存在に。それが他ならぬ彼の友、太公望であることに。無性に苛立って、自然名前の声は棘を孕んだものとなる。

「太公望師叔のこともそりゃあ心配でしょうけど。ですが大丈夫と言ったのは普賢様、貴方ですよ」

「うん、そうだね」

 名前の苛立ちを察しているはずなのに。それでも普賢真人が腹を立てることはない。指摘することすらも。彼は胸の内を語らず、ただ柔和な笑みを浮かべるばかり。
 いつもいつも、彼はそう。名前だってとうに理解している。自分の感情が酷く下らない、子供じみたものであることくらい。
 ーー敬愛する師匠を取られたくない。
 そんなのはお門違いもいいとこだ。だだをこねる幼子よりもどうしようもない。だから普賢真人だって名前を諭すことすらしないのだろう。勿論知らぬところで怒りを向けられる太公望にだって申し訳なく思っている。
 だが、それでも。ふつふつと生まれ出ずる悋気に年若い娘の心は抗いようもなく。

「……それでも、気にかかるのですね」

「うん、……ごめんね」

「……いえ、」

 けれど、と名前は苦々しいものを噛み下した。
 それはこの心優しき師の眼を曇らせたくはないという思いと、この御方の前では恥ずかしい姿など晒せるはずもないという思いからであったのだけれど、それはそれ。
 どんな理由からにせよ、娘はそれ以上栓無きことで騒ぎ立てることはしなかった。ーーその内心では相も変わらず嵐が荒れ狂ってはいたのだが。
 そう、本当のところ、名前は全くと言っていいほどに納得がいっていなかった。母を奪われた嬰児のように。いつ癇癪を起こすとも知れぬ心中であった。

「ならば私は下がらせていただきます。その御様子では修行をつけていただくのも申し訳ないですから」

 とはいえ娘はもう幼子ではない。であるからこそ自制心が失われる前に、と申し出たのだけれど。

「待って、名前ももう少し見ていきなよ」

「は……?」

「きっと名前にとってもそれがいい。勿論、僕にとっても」

 ーー何を、言っているのだろうか、この人は。
 名前は阿呆のようなーーつまるところ、彼女としてはたまらなく不本意なーー顔をむざむざとぶら下げて、困惑しきりといった声を洩らした。
 瞳から溢れるのは怪訝の色。冗談でも言っているのか。それとも深遠なる意図あってのことか。
 図りかね、戸惑い見返す名前に。しかし普賢真人は多くを語りはしなかった。月宮の主もかくやといった儚く美しく、ーーそして有無を言わさぬ微笑を湛えていた。
 その笑みの前ではどんな反論も塵と消える。この時名前の抱いた疑問も。

「……わかりました。貴方がそう仰るのならば」

「うん、ありがとう」

 消え失せ、しかし素直に従うのはなんだか癪で、名前は不承不承といった顔のまま普賢真人の隣に手巾を敷き、腰を下ろした。
 だから名前は気づかなかった。その横顔を見つめる眼差しの温かさも。微笑ましいとばかりに緩む師の口許にも。気づかず、水面へと視線を落とした。
 水鏡に映し出される青年と霊獣。そこでようやっと名前は彼の髪が存外に艶やかな黒色をしていること、思慮深く澄んだ瞳をしていることを知った。
 というのも、普賢真人から聞き及んでいた話だけで名前は太公望のことを敵視していたのだ。故にこそ自ずから彼のことを知ろうとはしなかったし、この水鏡が普賢真人の元に作られてからも積極的に覗き込む真似もなかった。

「……もっと間の抜けた顔だと思ってた」

「ふふ、まぁ普段の態度はね」

 思わず。零れた言葉はだからこそ真実で。驚いたという風に目を瞬かせると、普賢真人はくすくすと笑みを溢した。
 「望ちゃんはかっこつけたがりだから」馬鹿な振りをしているのだ、と。道化を装う友を優しい目で見守った。

「そういうとこ、少し名前と似ているね」

「ど、どこがですか!?」

 大人しく話を聞いていられたのはここまで。
 普賢真人の思いもがけぬ言葉に、名前は狼狽え、憤慨した。

「私は演技でもこんな食い意地の張った真似はできません!というかそもそも私が人を欺いたことなど、」

 心外だと食い下がる。その顔といったら!命乞いでもしているのではというほどの必死の形相。知らぬ者が見たら、ここが審判の場かと見紛うであろうそれは、けれど普賢真人には通用しなかった。

「でも名前も格好つけたがりでしょう?陰で努力してる癖に外では何でもできて当然って顔してるじゃない」

「う……っ、」

 幼少期から名前を見てきた師。彼にはどんな仮面も容易く剥ぎ取られてしまう。というより、彼の前では名前の虚飾など最初から無いに等しいのだ。
 それを思い知らされ、名前は口ごもる。これが他の者なら。普賢真人以外の人に言われたのだったら名前だって何時もの調子でいられた。馬鹿なこと言わないで、と。澄まし顔で遣り過ごすことができた、けれど。

「……そんなこと、ないもの」

 彼の、前では。
 拗ねた口振りで顔を背けることしか名前に術はなかった。例えそうすることで余計に普賢真人の笑みが深まろうとも。幼子を見るような目で頭を撫でられようとも。名前に反抗の余地はなかった。



 そうして、師に付き合って幾日か。

「これは……」

 ある日のことだ。何時も通りの代わり映えしない崑崙山での日々。その内のひとつ、またも師と共に水面を見ていた名前は、すっと眉根を寄せた。
 水鏡の中では大所帯となった太公望一行が映っていた。西伯侯の待つ城まで後少し。数刻あれば辿り着けるという時分になって、彼らは九竜島の四聖からの強襲を受けていた。
 それ事態はどうということもない。これまでも戦いはいくつもあったし、その度に太公望は機転を利かせて潜り抜けてきた。
 ーー問題はその後だ。
 四聖を封神しようとした太公望たちの前に現れたのは殷の太師、聞仲であった。その強さに、信念に、成す術なく倒れ伏す人々。その中には普賢真人の友、太公望も勿論含まれている。

「……不味いね」

 何時もならば。穏やかな川の流れのように紡がれる音が、この時ばかりはぴんと張りつめていた。それは事の深刻さを示していて、名前は嫌な予感に拳を握り締めた。

「大丈夫ですよね、だって太公望師叔は貴方の、」

「……でも、これは桁違いだ」

 否定してほしかったのに。
 普賢真人は真実しか紡がない。圧し殺したような声。険しい顔に、名前は唇を噛む。
 ーーどうすれば、よいのだろう。
 今から駆けつけたとして、間に合うだろうか。ーー答えは考えるまでもない、否だ。
 それでも師のこんな苦しげな顔は見ていられない。叶わなくとも、敵わなくとも。

「私、」

 そう、駆け出そうとした時。

『ま……、まて……』

「……っ!」

 声が、響いた。
 それは今にも消えそうな、か細い光であった。けれどどんな大火よりも名前には眩しく、その耳を、思考を、明々と照らし出した。

『誰も殺させはせぬ!!』

 その身からは鮮やかな血潮が流れ出ていた。頭部から、口許から。止めどなく溢れる赤は余りに痛々しく、肩で息をする姿は見ているだけで心臓が凍る。
 なのに彼は立ち上がる。他の何者も、仲間たちのただのひとりすらも目を開けぬ中。ひとりきりで聞仲と対峙し、その身を削って皆を守ろうとしていた。
 ーーだが、これでは。
 長くは保つまいという予想通り。やがて太公望の体はその強靭な意志に反し、力なく頽れた。その身に見合わぬ力を使ったのだ。反動で体が先に倒れるのも無理からぬことであった。

『わしは……ここまでなのか……?』

 名前が見守っていられたのはここまでだった。

「……っ、私、行ってきます!!」

 絞り出された太公望の声。無念さを滲ませたものに、名前は居てもたってもいられなくなった。矢も盾もたまらずに立ち上がり、地を蹴った。名前、と。愛する師からの呼び声すらも無視して。名前は駆け出し、崑崙山を降りていった。
 辿り着く頃にはとうに決着などついているだろう。名前が目にするのは彼らの屍ばかりかもしれない。それでも名前にはただ見ていることなどできなかった。
 それは彼らの中に見知った顔があったからーーではない。勿論“彼”のことも心配ではあったけれど、それ以上に名前を駆り立てたのは先刻抱いた想い。
 ーー太公望師叔を、その輝きを喪いたくはない。
 その想いに駆られ、名前は人間界へと向かったのだった。



 ……それが、三日前のこと。

「あぁ、緊張した……。どうしよう、何話したか全然思い出せない……。ていうか私、変なこと口走って……あぁ、そうだ、普賢様が余計なことを……」

 幸いなことに気を失っていただけの太公望たちを拾い、西岐城を訪った名前は、この日初めて太公望と相対した。
 だが名前の記憶は彼と視線を交わしたその瞬間に焼き切れてしまったらしい。どんな会話をしたのか。自分がどんな態度を取ってしまったのか。そんなことまで気は回らず。名前は顔に上る熱を冷まそうと頬を押さえた。

「でも間近で言葉を交わしたわ……」

 その事実だけで。胸はいたく締めつけられ、呼吸をするのも疎かになる。だというのに不快ではなく、むしろ心地いい。そんな不思議な感覚に戸惑いつつ、名前はほうと息をついた。