天化と妻の場合


 昼間とは異なり、めっきり冷え込む晩秋の夜。近くで、或いは遠くで鳴り響く虫の音。これより過去も未来も変わらぬであろう自然の中、名前はただひたすらに闇の向こうを見やっていた。屋敷の前、門扉に背を向け、待ち人に焦がれた。
 ーーと。
 その表情が不意に和らぐ。視線の先、燭火に浮かぶ影に。
 愛しき人の姿を認め、名前は微笑んだ。

「おかえりなさい、天化さん」

「ああ、ただいま」

 瞳と同じ、深い色の上衣下裳。夜風に翻すままに足早に歩み寄ったその人もまた、名前と同じに微笑を湛えていた。名前の姿を捉えた、その瞬間から。
 愛しいと、臆すことなく露にする彼はそのままに。名前の頬に口づけ、その背に手を回した。

「悪い、待たせたな」

「いいえ、わたしが好きでお待ちしていたんですもの。それに待つのは嫌いじゃないわ。あなたのこと、一等好きだと確認できるから」

「……そっか」

 はにかむその姿。精悍な顔立ちに幼さが滲む。青年らしい色合い。夫となった当初から変わらぬその表情に、込み上げるのは愛しさだった。
 名前も彼に応え、その頬に唇を寄せる。と、擽ったげに彼が笑み溢すのがまた愛しくて。世界のことなんか置き去りにして、名前はくすくすと笑うのだった。

「俺っちがいない間、なんの問題もなかったか?」

 王都、朝歌。その中心部に黄家の屋敷はあった。多くの親族が暮らす家。けれど夜半の今はしんと静まり返っている。
 その中、二人の部屋である廂房にて、天化は遅い夕食を口にしていた。黍飯に、豚肉と蓼の羹。それから羊の肉を蒸し焼いた胡炮肉。王都でくらいしか食べられない豪華な食事を食みながら、天化は気遣わしげに名前を見た。

「問題ありません。外では少々騒ぎがありましたが……今は致し方のないこと。ですがお屋敷の中は平穏無事、なんせお義母様もいらっしゃるのですもの」

「確かに。オフクロはあれで強い人だからな」

 天化は笑いを噛み殺す。
 彼の母、そして名前の義母となった女性は儚げな容貌に反して、芯のとても強い人だった。この屋敷が今も変わらず穏やかな日々を送れているのも彼女あってのことだろう。
 その傍らに座す名前は彼のために茶を入れてやりながら、「あなたの方は?」と訊ね返した。
 屋敷のことを。自分たち家族のことを気にかけてくれるのは嬉しい。けれど、一番危険に近いのは彼やその父武成王らの方である。

「大事ありませんでしたか?世には自暴自棄に駆られる人々も多いようですが……」

「ああ、確かにあちこちで騒動が起きてるさ。でもうちの王さまはご立派な方だからな。紂王さまが毅然としてるから……」

 争乱も無事鎮圧することができた、と。語る彼はしかし、物憂げな眼差しをしていた。世を憂う瞳。それは優しさの証だった。
 彼は心を痛めているのだ。無情なる運命に翻弄され、行き場をなくした人々を。己を、世界を儚み、自棄になるしかない人々を。

「……お疲れさまです」

 しかしどうしようもないことだった。彼ほど武の才に溢れた人であっても。宣告された死は避けようもないことだった。
 だから名前は多くを口にしなかった。語るべきことはもうない。名前にできるのは、ただ静かに寄り添うだけ。その心を思い、彼の手に自身のそれを重ねることだけだった。

「……ありがとな」

 それでも彼は口許を綻ばせ、小さく呟いた。心底救われたとでも言うように。微笑み、名前の手を握り返した。

「そういやアイツは?寝顔だけでもって思ったけど」

「あぁ……あの子ならば天祥さんのところに。今日は遠駆けに連れていってもらったものですから、すっかり遊び疲れたみたいで」

「そっか。アイツだけはいつも通り……楽しくやってんならそれでいいさ」

 途端、天化の顔は父親特有のものになる。二人の間に産まれた男児。まだ幼い彼を思う顔はひどく優しく、温かい。

「ええ、わたしもそう思います。あの子だけは何も知らないまま……」

「あぁ……、」

 そこで、沈黙が落ちる。蝋の溶ける音。虫のさざめく音。そうしたものが世界にはまだあるはずなのに、胸に沸き上がるのは寂寥感。寂しくて、悲しい。
 名前は我が子のことを想った。ーーあの子にだけは、こんな思いさせたくない。それが身勝手で親の我が儘なのだとしても。この世界の終焉を息子に感じ取らせたくはなかった。

「なんか、夢でも見てるみたいさ」

 ぽつり。声を落としたのは天化だった。
 それはどこか空虚な響きをしていた。無意識の内の呟き。だからこそそれが彼の本音なのだとわかった。
 名前も静かに顎を引いた。「ええ、……本当に」夢だったら、どんなによかったろう。
 始まりは貞人ーー王室専属の占い師だった。占卜を駆使し、彼はひとつの託宣を得た。
 ーー間もなく、この世界は滅びるであろう。
 それは国という規模のものではない。この地に生きるすべての者へ向けられた予言であった。
 無論それを唯唯諾諾と受け入れる紂王ではない。神の怒りと判じた彼はいくつもの祭祀を執り行った。天上の神々を祀る火祭。河の神を祀ること、社の神を祀ること、果ては祖先を祀ることまで。そのたびに多くの犠牲が払われた。多くの血が流れた。
 それでも、ついぞ予言が翻されることはなかった。
 やがて騒ぎは王都を越え、遥か西方や北方までもで生まれることとなった。当然紂王は騒動になることを避けるため、託宣を内々のものとしていた。けれど世界各地で同様のお告げがなされたとあれば、人の口に戸は立てられない。
 占い師の提示した運命の日。終焉の差し迫る今となっては、平静でいられぬ人々が溢れるのも無理のないことであった。
 だが紂王はそれをよしとしなかった。最期の時、その時まで誇り高くあれ。彼は命尽きる日まで正しく人であろうとしたのだ。
 それは名前たちも同じだった。同じ思いで、今もまだ変わらぬ日々を送っている。
 人はこれこそを逃避と呼ぶかもしれない。だが名前にとっては真の願いであった。最期まで、愛しき人々と共に。今名前の胸にあるのはただそれだけだった。

「親父さんたちのことも心配だろ?」

「ええ、でも別れは済ませましたから。手紙だけでも、それが叶っただけわたしは充分です」

 名前は懐を指し示す。片時も離さず仕舞ってある一通の文。遠く西方、西岐の邑に住む家族からの手紙は最後まで明るいものであった。名前を心配させまいとしてのことだろう。
 だがその文のやり取りもある時を境に途切れた。混乱が続いているのだ。とても遠方の邑と文を交わせる情勢じゃなかった。
 だから今となっては父がどういった状況に置かれているのかを知る手段はどこにもない。しかし別れの言葉を交わせぬ人も世の中にはいるのだ。だから名前はこれでよしとすることにした。
 なのに天化は悲しげに目を伏せる。滲むのは歯痒さ。悔しいと言わんばかりの顔に、名前は殊更明るい声を上げる。

「大丈夫、父はしぶとい人ですから。わたしは気にしてません」

 それが虚勢であるのは火を見るより明らかなこと。
 だが天化が指摘することはなかった。そうだな、と頷いて、名前を抱き寄せた。

「けどそれを言うなら俺っちだってそうさ。体だけは丈夫だかんな、案外世界が滅んだってぴんぴんしてるかも」

「ふふっ、でしたらきっとわたしも同じです。だってあなたの妻ですもの」

 たわいのない冗談。ありふれた音色に名前も笑みを洩らす。
 それは夢想だ。決して叶わぬ夢幻。されど今必要なのは希望に満ちた夢であった。

「その時はきっと見つけてくださいね、わたしのこと」

「あぁ、もちろんさ」

 言った彼は「そうだ、」と手を叩くと、やおら立ち上がる。
 首を傾げる名前。その視線に黙りを決め込んだまま、天化が向かうのは中庭。そこに立つ柳から枝を取り、名前の元へと戻ってくる。

「どうなさったの?」

「いいこと思いついたのさ」

 にっと少年のように口角を上げ、彼がすることといえば。

「これは……」

 鮮やかな手際だった。天化は名前の腕を取り、その細い手首に取ったばかりの柳の枝を巻いた。描く形は円環。誓うのは再会だった。

「こうしとけば絶対にまた会える。約束さ」

「天化さん……」

 声が潤む。視界が霞む。けれどいずれもしようのないことだった。
 名前は彼の胸に縋った。この温もりが愛おしい。ーー喪いがたい。そう思っているのに、術がない。それがどうしようもなく悲しく、名前もまた彼に誓った。

「わたしも。わたしからも贈ります。あなたに、あの子に。あなたを見つけられるよう、見つけてもらえるよう。信じて……おりますから」

「……あぁ、」

 掠れる声。伝う熱。二人は静かな夜に身を横たえながら、迫る終焉を予感した。足許に広がる闇を認め、それ故に今傍らにある温もりを至上の幸福とするのだった。