学生独歩と少女の場合


 ーーもしも明日世界が滅亡したら。
 そんな夢想をした。過去、或いは未来で。
 夢想をした。
 世界が滅ぶなら。
 その前に自分は何を成そうとするのだろう。何を願うのだろう。
 この息苦しい世界をぐちゃぐちゃにしてしまえたら、なんて。思ったのは、それが夢想に過ぎなかったからだ。
 実際直面したら案外なんてことはない。やりたいこと。やらねばならないこと。何も思い浮かばなかった。
 だから独歩は今日も学校に来ていた。校則に縛られたつまらない学生服に身を包み。わずらわしいばかりのありふれた日常へと耽溺した。

「ふぅん……?そんなわけでこんな時なのに自己嫌悪に陥ってるんだ」

 ……ほんの少しの非日常を連れ込んで。
 独歩の隣には少女がひとり座っていた。折り目正しい制服。けれどそれはこの学校のものではない。近隣にある女学校のものだった。
 そんな彼女ーー名前と出逢ったのは些細な偶然から。場所はやはり屋上で、その時彼女はフェンスの向こう側にいた。そこにいるのが当たり前みたいな顔をして。脆い足元が心地いいのだと夕陽に目を馳せていた。
 ーーそれから。
 何が切っ掛けか。どうやら独歩は彼女のお気に召したらしく、こうして懐かれてしまったのが運のつき。悪魔の囁きを弄する少女に今日も今日とて独歩は振り回される。

「気にすることないのに。どうせ全部なくなっちゃうんだから」

 声音は蜜。されどその内側に毒があるのがこの世の摂理。
 それもいいかもな、なんて甘い誘惑に靡きかけ……いいや、と慌てて頭を振った。

「バカ言うな。未来のことは知らんが“今”はあるだろ?連続したどうしようもない“現実”が」

 明日世界が滅亡するとしても、それは所詮未来のこと。今の独歩には関係のないことだった。独歩にとって大切なのは“今”で、それを壊すことを思えば心臓が冷える。
 ……これが良心というやつだろうか。

「ならやっぱり飛ぶしかないよ。そうすれば永遠が手に入るわ」

 囁く少女の後ろ。広がる青空はどこまでも高く、遠く。澄み渡っているのに、その向こうから死の硫黄が降り注ぐなんてあまりに現実感に乏しい。悪い冗談だとしか思えない。朝も夜もひっきりなしにテレビから流れる情報も、独歩にはどこか他人事としか感じられなかった。
 しかし終末は来る。きっと、確実に。独歩には到底手の及ばぬところで、神の手で。この世界は終焉を迎えるのだ。星の衝突、そんな陳腐な理由で。独歩の預かり知らぬところで運命は定められてしまったのだ。
 ーーそれが、ほんの少し癪に触る。

「……否定しないのね、珍しい」

「ほっとけ。……自暴自棄になるのも仕方ないだろ」

 だから彼女の言葉が眩しい。憧れてしまうのだーー叶わないからこそ。
 名前は目を瞬かせ、ちいさく首を傾げた。さらりと頬を伝う髪。淡い光を弾く黒。艶やかなそれもいずれは焼け落ち、灰になる。無情な世界。その瞳を、輝きを、ーー永遠に閉じ込めることができたなら。
 無意識のうちに思う独歩を他所に、名前はくつくつと肩を揺らす。真白い歯。縁取る紅。隙間から溢れる笑い声の無邪気さと言ったら!鳴り響く鈴の音はどこか清浄さすら窺わせる。

「そうね。そう客観視できるあなたはとても可哀想だけど」

「可哀想言うな」

「あら、可愛いって言った方がよかった?」

「…………、」

 高校生男子を捕まえて可愛いはないだろう。
 そう思い、口を曲げる。が、彼女はまたしても鈴を転がす。子供のように、或いは淑女のように。笑う姿はその制服によく似合っていたけれど、だからといってその発言まで受け入れられるはずもない。
 黙りを決め込む独歩に、名前は笑うのを止め、ついと立ち上がる。
 歩む先は行き止まり。されど黄泉への入り口はぽかりと穴を開けている。いつかの日のように。怖いくらいに赤い夕焼けに焦がれたあの日。あの日と同じ、目で。遠くを焦がれる目で、名前は高く澄んだ秋空を見た。

「……なぁ、お前……、今でも飛びたいって思うのか?」

 それは一枚の絵画のようだった。その中にこそ永遠があり、それだけが真実なのだと思った。溶けゆく輪郭。吸い込まれそうな瞳。甘美な墜落の夢。
 だから独歩は少女の世界を無遠慮に破った。それが絵画だというなら。手が届かないのなら。破り捨て、彼女の意識を引き戻した。
 「唐突ね」目を丸くした名前にはもうさっきまでの色はない。美しいけれど、人形じゃない。ーー生きている。変わる表情に安堵するのを、きっと彼女は知らないだろう。

「驚いた。あなた、あんまり触れたくなさそうだったのに」

「そりゃこんな理不尽を前にしちゃ考えずにはいられないだろ


「死ぬことを?」

「……ああ、」

 独歩が敢えて言葉にしなかったこと。意図的に濁していたこと。それを名前は何の気負いもなく口にする。今日の夕食だとか明日の天気だとかを聞くみたいに。
 言う彼女に、独歩は躊躇いがちに顎を引く。

「安心して。あなたの前じゃ飛ばないわ」

 と、名前は途端に目元を和らげた。母か姉か。とにかくそういった具合に。親愛を向けられ、独歩は思わず目を逸らした。

「俺がいなくたって飛ぶなよ」

「それはちょっと難しい、かな」

 困ったような響き。声に、視線は引き戻される。
 屋上に座る独歩。屋上に立つ名前。そこに大きな隔たりなどないはずなのに、眉尻を下げて笑う彼女がどこか遠い。

「今だからこそ思うの。飛ばなくちゃって」

 そう言う、声すら。
 それは小鳥の囀りだった。夢見がちな少女の声。だというのに、その瞳に映るのはほの暗い深淵。見つめるだけで吸い寄せられる、引き摺られる。わかっているのに、目が離せない。

「どうせ世界は滅亡するってのに?」

「だからこそよ」

 自分が言うのを、独歩はどこか遠くで聞いていた。……彼女は、どう感じていたのだろう。

「私は他でもない“私”になりたい。唯一絶対の安らぎを手離したくない。硫黄の雨に打たれて死ぬなんてまっぴら。私は私だけの死を迎えるの。私の手で私を殺す、それだけは譲れないわ」

 名前は自身の胸に手を当てる。その体を抱くように。守るように。誓う少女の言葉は、澄み渡る空よりも余程清々しい。神への反逆には違いないのに、それでもなお美しかった。

「……そう、か」

 独歩は何も言えなかった。命を大事にしろとか周りのことも考えろとか。以前だったら言うべき言葉は定まっていたのに、今となっては何もかもが宙ぶらりん。
 そんか独歩のままならぬ心を察したのか。名前はフェンスから背を向け、再び独歩の元へと、そしてその前へとしゃがみこんだ。
 覗き込む黒曜石。瞬く光は独歩を見つめ、笑みを象る。

「でもあなたの気分を害するのは不本意だからちょっと困っていたりもする」

「……なら来なきゃいいのに」

「それも本意じゃないから困っているの」

 言葉通りの顔を作り、故に真実なのだと訴えてくるが、独歩にはわかっていた。
 ーー彼女は、きっと。