太公望、夜話に付き合わされる
それは北伯侯の居城、崇城へ向かう途上のことだった。
「よぉ太公望、邪魔するぜ」
夜半。太公望は自身の天幕にて今後の計画を練っていた。
目的地まであと少し。相手方に道士がいる以上、速やかに事が運ぶとは思えない。だが敵対したいわけでもない。こちらとしてはなんとしても協力を仰ぎたいのだが……。
そんな思考を破ったのは姫発の気の抜けた声。断りを入れながら、しかし返事を待つことなく彼はずかずかと上がり込む。よく言えば気安く、有り体に言えば遠慮がない。
「なんだ姫発、こんな夜更けに……」
そんな彼に呆れ、太公望は溜め息を吐く。が、彼にはこの類いの小言は不要だ。何せ聞いた側から忘れてしまう。右から左、耳から抜けていくのがわかっていて、どうして説教できようか。ともかく太公望はこの一点に関してはすっかり諦めてきっていた。
それを察しているのかいないのか。姫発はにんまりと笑うと、愛用の枕を取り出した。
「やっぱ旅って言ったらよぉ……夜話は外せねぇだろ」
「おぬしは何か勘違いをしているな……」
太公望は遠くに目を馳せる。
この旅は断じて遊びではない。今後朝歌と一戦を交える上で欠かせない対話。北と同盟関係を築かなければ、西岐は朝歌との戦いに集中できない。だから太公望も策を練っているというのに……、姫発ときたら完全に旅行気分だ。
彼は太公望の返事を聞かず、いそいそと支度を整える。おまけに寝牀まで部下に運び込ませる始末。太公望がなんと言おうと、完全にここで寝る体勢だ。
「おい太公望、早く来ねぇと灯り消しちまうぞ?」
「わかった、わかったからそう急き立てるな」
こうなったら仕方がない。梃子でも動かないだろうと予想がつき、太公望も席を立つ。計画の準備は明日に持ち越しだ。まぁそれでも行程に支障はないから……問題はなかろう。
言い聞かせ、太公望も寝牀に潜り込む。それを見届け、姫発は燭台の火を吹き消した。
となると広がるは闇夜と静寂ばかり。常ならばこれですぐに眠りへと入れるのだが……そうは問屋が卸さない。
「なぁなぁ太公望、」
「……なんだ、」
まだ闇に慣れぬ目。お陰で朧な輪郭しか掴めない。だがそんな中でも姫発のうきうきとした声はよく響く。後はしんと静まり返っているものだから、太公望の左半身だけが騒音に悩まされる。
と、眉根を寄せるが、姫発には伝わらない。いや、わかっていて受け流しているのか。とにかく姫発は気にせず言葉を続ける。
「太公望はさぁ……どういう女の子が好みなんだ?」
「はぁ?」
藪から棒。人には向き不向きというものがあって、この場合で言えば太公望は後者だ。色恋沙汰にはとんと疎い。というより、四不象曰く“枯れている”。
それは姫発も承知のはず。周知の事実だというのに、彼はこの話題を持ち出した。
ーーまったく、何を考えているのやら。
訝しむも、それすら姫発は横に捨て置く。
「いや、太公望とそういう話はしたことないと思ってさ。それに夜話といったら恋話だろ?」
「うーむ……、それもまた勘違いだと思うのだが、」
「いいからいいから」
押し切られ、押し黙る。どうも今日は姫発の勢いに呑まれがちだ。らしくもなく振り回されている。さて、どうしたものか。
そんなことを考える太公望を置き去りにして、姫発はかしましく話を続けている。恋話、というよりも街で見かけた姫発曰くの“プリンちゃん”とやらのことを。何が楽しいのか、弾んだ声で語られる話を、太公望はぼんやりと聞き流していたのだけれど。
「けどここのとこの一番は名前だな、やっぱり」
馴染みある名前がその口から飛び出して、太公望は小さく息を呑んだ。思わず、反射的に。
それは単に虚を突かれたというのではない。彼が名前を気に入っているのは重々承知していたし、彼が言ったのは今さらな話だ。
けれどその口から直接聞かされると、何故だか……穏やかでいられない。理由もなく胸がざわつく。そのことにも驚かされ、太公望は二の句が継げない。
「ちょっと冷たげな感じだけどそこがまた俺的にはいいっていうか、見下されるのが癖になるっつーか……ともかく美人だし、うん、いい女だよな」
上滑りしていく言葉。同意を求められても曖昧に頷くことしかできない。「そう、だな」ーー確かに、客観的に見て、彼女は所謂“いい女”だろう。
姫発の言う通り、名前は美人だ。さすが黄家の血族といったところか。西域出身らしい澄んだ金の髪に、天化と揃いの緑がかった碧い瞳。少々気性は荒いが、それを補い余るほどに良いところがあるのを知っている。存外に面倒見がいいことも、素直ではないがその実優しいことも。……太公望は、知ってしまった。
「今回もさ、口では色々言ってたけど俺のこと気にしてくれてんのが伝わってくるんだよなぁ……。頼んだら弁当だって作ってくれたし……、結構いい線いってると思うんだよなぁ……。な、太公望はどう思う?」
「どう、とは?」
「そりゃあ脈あるかだよ」
そろそろ目も闇夜に慣れ、大まかな表情まで捉えられるようになっている。姫発が笑っていないのも、……その目が真剣な色を帯びているのも。太公望には捉えることができた。
だから言葉に詰まった。……のだと思う。たぶん、きっと。理由なんてそれだけだ。それだけのはずだ。
「……そうかもしれないな」
思考に垂れ籠める霧を振り払い、太公望は静かに首肯した。
そうかもしれない、姫発の、言う通り。それは己に言い聞かせるような響きを持っていた。そんな響きなのを、太公望は敢えて気づかない振りをした。
「…………、」
姫発は。彼は何かを言いかけるように口を開いた。けれど躊躇いを含んで言葉は呑み込まれる。訴えかける眼差し。……それは、何を意味していたのか。
少し思考を巡らせばわかることだ。彼の考えていることなんて。わかるはずだと理解している。理解しているのに、太公望はそうしなかった。深く考えるのを最初から放棄した。その理由すらも。考えず、そっと目を逸らした。
「……そっか。うん、太公望が言うんならそうなんだろうな!軍師サマのお墨つきを貰えたっつーことで、俺も自信持ってガンガン攻められるぜ!!」
そして姫発はそれを問うことをしなかった。彼は大袈裟なまでに明るく声を上げ、笑みを形作る。
対して太公望は、
「……まぁ、あまり無茶をするでないぞ」
「わーってるって。嫌がることはしない、安心しろよ」
「ならばよいのだが、」
広がる闇夜に安堵した。感情の揺れを悟られぬことを。眠りに身を任せ、現実から逃避できることを。感謝し、緩やかに目を閉じた。
「……おやすみ、太公望」
「……あぁ、」
遠ざかる声。姫発もまた体の向きを変え、寝る体勢に入ったらしい。すぐに健やかな寝息が聞こえてきて、そっと息を吐いた。そうしてから、自分の体が強ばっていたのに気づかされた。
気づかされたのに、それすらも無視して睡魔へと意識を注ぐ。一度眠ってしまえばこの違和感も露と消えるであろう。そう期待して。