道士、家族を想う


 キィン、と。鋭く重たい音が練兵場に響いて、鉄刀が兵の手から溢れ落ちる。となれば結果は自明の白。参りました。その一言。肩を落とす兵に、けれど名前は殊更に優しく声をかける。

「今のは中々悪くなかったわ。ただ馬を操るのに意識を傾け過ぎね。もっと馬に慣れなさい。鞍の改良についてはこちらで考えておくから」

「は、はい!」

 普段の冷たげな容貌。故に当初は西岐の兵たちにも遠巻きに見られていた名前であったが、訓練に参加する内それも次第に微かなものとなっていた。
 それもこれも師に心配をかけぬためである。彼女の師、普賢真人。優しすぎるほどに優しい彼は、名前の苛烈な性格を案じていた。正確には、そのために彼女自身が傷つくことを。
 通信用の宝貝で、崑崙山にいる師と連絡を取り合う毎日。そのたびに名前は師から助言やら何やらを授けられていた。周りと上手く付き合っていくにはどうしたらいいのか。言い聞かされ、耳にタコができると思いはしたが、それも師の優しさ故のこと。それがわかっているから、名前は自身の言動に酷く気を遣っていた。ーー尤も、例外というものはあるのだが。
 ともかく西岐で問題を起こすわけにはいかない。
 ーー今日も何事もなく終わりそうで何よりだ。
 そう、傾く陽の橙に目を馳せた時。

「名前お姉ちゃん〜〜〜っ!」

「ぅぐっ……」

 背中に、特に腰回りに衝撃が走る。
 それは到底駆け寄る子供を抱き留めたものではない。落石にでも遭ったような感覚。衝撃にに、思わず息が詰まる。
 けれど当人にその自覚はない。見下ろす視線。名前の腰に抱きついてきた少年の輝くほどの笑顔といったら!

「名前お姉ちゃんすっごくカッコよかったよ!特に後ろ向きで矢を射掛けるの!ボクもやってみたいなぁ〜…」

「そ、そう……ありがと」

 返す笑みが引き攣るのは衝撃の残滓故。天祥の無邪気な称賛には正直……悪い気はしない。というか、誰だってそうだろう。こんなにも真っ直ぐに慕われてしまっては……さしもの宝貝人間にですら心が芽生えるほどなのだから。
 だから名前も深く考えことなく、「いいわよ、今度教えてあげる」と約束してしまった。それで少年が喜ぶのなら、と。

「ホント!?やったー!じゃあ明日、明日ね!約束だよ!!」

「わかったわ、明日ね」

「絶対だよ!天化兄ちゃんもきっと喜ぶから……」

 ……天化が?
 思いもがけぬところから出てきた幼馴染みの名に、名前は目を瞬かせる。
 どうして天化が喜ぶの?そう問うより早く。

「こら天祥」

「いたっ」

「あんまし名前に迷惑かけちゃダメだって言ったろ?」

 天祥の頭に拳骨が落ちる。無論それは兄らしく加減のされたものであったけれど、名前から質問を奪うには十分だった。

「別に迷惑なんかじゃないわよ、子供嫌いってわけでもあるまいし」

 天化ーーと。急いで駆け寄ってきた様子の彼に、名前は気にすることはないと言ってやる。のだけれど、天化は天化で何故だか呆れたような顔をした。

「そうは言ってもな、名前。時間に限りがあるのは事実さ。……明日、鋳物師んとこに行かなきゃなんねぇんだろ?」

「……あ、」

 天化のその表情の理由。納得の指摘に、名前は一瞬間の抜けた声を洩らす。
 ーーそういえば、そうだった。
 西岐は今、朝歌との戦いに向けて、軍師太公望指揮の元準備を進めている。……そのはず、だったのだが。
 その軍師が西伯侯の息子を連れて何処ぞへと夜逃げしてしまった。先の象レースで多額の負債を抱えたためである。
 既に事件からは二週間が経過した。が、未だ二人が帰る気配はなく。彼らの分の仕事も残された者に割り振られることとなったのだ。
 お陰で黄家や名前はてんやわんや。元から請け負っていた兵の訓練の他に、文官の真似事までこなさなくてはならなくなったのだ。お陰で名前の頭もすっかり覚えが悪くなっていたらしい。

「で、でも鋳物師のとこには歩兵武器の相談に行くだけよ?その後は……ええっと、」

「弓兵の指導に、それから周公旦が水軍についての話がしたいとか言ってたな」

「……そうだったわね」

 頭を巡らせ明日の予定を掘り起こす名前。対して天化は名前よりも余程名前の予定を把握していた。何故だか知らないが、昔から彼には隠し事ができない。だから今回も名前は無抵抗のまま頷くに留めた。

「……じゃあ明日は遊べないの?」

 そこで。それまで静かに事のなり行きを見守っていた天祥が口を開く。
 その声音、瞳から溢れるのは悲しみ。残念だ、と訴える表情に、名前はつい否定の語を紡ぎたくなるのだけれど……天化の視線が痛い。

「ごめんなさい、天祥。明日……じゃなくても許してくれる?」

「うん、ボクはいつでもいいよ!……ごめんね、名前お姉ちゃん」

「貴方が謝ることじゃないわ」

 物分かりよく受け入れてくれた天祥に、慌てるのは名前の方。安易に約束してしまったのが悪いし、もっと言えば自分の予定すら把握していなかったのがいけない。
 そう、自己嫌悪に陥る名前に。

「……そんじゃあ予約しとくさ。次の休みは俺らに付き合うこと、約束な」

 その手を引いてくれるのは何時だって天化だった。同い年なのに、知らぬ間に大人びた顔をするようになった彼。天化は名前の頭を撫で、帰ろうと促した。
 右手に天化、左手に天祥。それは名前にとって懐かしい感覚だった。遠い昔、仙人界へ行く前のこと。父がいて、母がいて、弟がいた。そんな平和な日々を思い出させたからーー。

「どうだ、名前。無理せずやってるか?」

 その晩、黄飛虎に呼び止められた時には泣きたくなってしまった。
 食事を終えた後。涼みに中庭に出た名前を追うようにして彼はやって来た。いや、実際にそうだったのだろう。黄飛虎は名前を気にかけている。既に親も家族も喪った名前のことを。気にかけているから、父親のような不器用さで声をかけたのだ。

「ええ、私は平気。ありがとう、おじさま。私のこと、心配してくださって」

「……お前も大事な家族だからな」

 頭を撫でる手の温かなこと。柔らかなこと。友のものとも師のものとも違うそれに、名前の視界は一層滲む。けれどそれを笑うことで打ち払う。
 ……泣きたいのは、私だけじゃない。
 家族を喪ったのは彼とて同じだ。妻を。妹を亡くした。だからきっと、彼は余計に名前を気遣う。名前もまた、妲己の策により弟を喪っていたから。

「本当に私は大丈夫。父だって戦場で死ぬのは本望だったでしょうし、……あの子のことも、本人はわかっていたわ」

 名前は幼い頃に母を亡くした。流行り病だった。そして仙人界で修行している間に父を亡くした。遊牧民から国を守る戦の最中だった。名誉ある死だったと伝え聞いている。
 そしてただ一人残された弟は、若くして屋敷の主となった。そして彼は恐れ多くも紂王に苦言を呈しーー妲己の提案で処刑された。
 名前がそれを知ったのは崑崙山を降りた後。再会した黄飛虎が、悲しみを堪える表情で教えてくれた。師匠が名前に伝えなかったのはきっと名前の心を案じてのことだろう。
 それでも名前が涙を流したのはその一度きり。今はもう、仄かな笑みを浮かべるだけ。
 そんな名前に、黄飛虎は「そうか」と静かに頷いた。そうして次に彼が見せたのは朗らかな笑顔だった。

「お前は父親に似て溜め込みやすいタイプだからな。あんまりなんでもかんでも自分一人で済ませようとするなよ」

「……わかってます」

 息子と同じようなことを言う黄飛虎が可笑しくて、名前まで釣られて笑みを深めた。
 ーーと。

「……太公望どのにもそんくらい素直になれたらなぁ」

「な……っ」

 黄飛虎がしみじみと言うのは想定外の一言。太公望、今この場にはいない人。関係のない人の名に、名前は思わず狼狽える。
 完全に油断していた。努めて考えないようにしてきたこと。思い出すまいと蓋をしてきた記憶とーー感情。一気に熱が駆け上り、頬に集まってくるのを抑えられない。

「し、師叔は関係ないじゃないですか。あんな、あんないい加減な人、私は知らないわ」

「そうかそうか。お前はそういうほっとけない男が好きなんだな」

「だ、だからす、すす好き、とかそういうんじゃ……」

 常ならば。これが黄飛虎でなければ名前はいつも通り虚勢を張れた。言葉で鎧を作ることができたのに、彼が相手だとそうはいかない。何しろ相手は尊敬する武成王。か細い抵抗くらいしか名前にはできなかった。ともすると脳裏に甦る姿を振り払おうと、頭を振るくらいしか。