乱数と厭世家の場合
触れたところから熱が生まれる。享楽の宴。悦楽の境地。眩い閃光に貫かれ、名前の思考は弾ける。
あぁ、この瞬間が永遠に続けばいいのにーー
名前が願ったのはただひとつ。己の消失のみであったのだ。
「喉、痛い……」
なのに酔いは覚めてしまう。眠りすらも永遠ではない。
名前は気怠い体をシーツの海に投げ出したままに、その首元を汗ばんだ手で擦った。そうしたのは気分によるもので、無論手当ての効果などはない。痛みはもっと奥の方。膚の奥に根差しているのだから。
と、ぼんやり宙を漂う視線。そこにふいと差し出されるは透明なグラス。よく見ると日に透けて中身がゆらゆらと揺れている。だが名前はそれを眺めるばかり。
そんな様子に焦れたか。
「ちょっと、せっかく水入れてあげたんだけど」
苛立たしげな声。女性にしては低く、子供にしては毒気が有り余るそれ。名前がひとつ、瞬く間すらも彼は待てができないらしい。
「なんなのさ、そんなにボクの手を煩わせたいワケ?」
目の前に浮かぶオアシスは陽炎のように消え。代わりに名前の視界を埋めたのは少年の端整な容貌であった。
絹糸のような髪。円やかな輪郭。永遠普遍の美。その体現者であるーー少なくとも名前はそう思っているーー少年の名は飴村乱数といった。
それ以外のことを名前は知らない。この街の有名人らしいがそんなことはどうだっていい。
名前には彼が永遠にほど近く、そして己の消失を例え一時でも成してくれる、それだけで十分だった。それだけが彼に縋る理由であった。
だから彼の唇が自分のそれを塞いだのも、そこから恵みの雨が降ろうとも、名前の表情が変わることはない。
「……苦しい」
「はぁ?世話してやったんだから感謝くらいしてよね」
ごくりと与えられた水を嚥下し。口を開いたかと思えばそれ。名前は顰めっ面だし、乱数は悪態をつく。口づけをしたって甘い空気なんぞは生まれやしない。そんな二人の間にあるのは……一体なんだろうか。
「……ナニ?」
「いえ、どうして優しくしてくれるのかしら、と」
彼と縁を結んだのは単なる偶然。酔った勢いだとか薬で理性が飛んでたからだとか、ようするにどうしようもなく低俗な理由からだ。それを引き起こした名前自身も救いがたい矮小な人間だ。だから同情される謂われも権利も存在しない。
だというのに、そんな名前に彼は付き合ってくれる。世界が終わるというこんな時分になっても。付き合ってくれているのは、どうしてだろうか。
「別に気にしないでいいのよ。貴方に迷惑をかけるつもりはないし、野垂れ死ぬとしても貴方の目の届かないところにするから」
だから、名前にはそんな理由しか思いつかない。良心の呵責。細やかだけれど、それでも縁が生まれたのは事実。故に彼は己を気にかけるのでは、と。
「だから気にしないで。体を重ねたって、ただそれだけよ?なんにも変わりやしないわ。私たちは他人のまま、ひとつの存在になんてなれやしないのだから」
そう思って、名前は隣に座る彼を見上げた。真っ白な海に溺れたまま。高い高い空を、眩い星を見上げた。
ーーと、その目がぐにゃりと歪む。
「……バッカじゃないの」
「いたっ」
不快げに細められた目。美人は怒ると怖いと言うが、どうやら本当のことのようだ。ぼうっとそんなことを考える名前、その頬を乱数は引っ張る。思いきり、横に。
引かれ、伸ばされ。思わず声を洩らすも容赦はされず。むしろ力は増していく一方。「わざとやってるんだから当たり前」……なるほど、つまりこれは罰なのだ。
「でも私、罪なんて犯してないわ」
いや、産まれたことが罪と言われればそれまでだが。というかそもそも薬物は禁止されているし、警察の厄介になる心当たりはある。ありすぎる。
けれど乱数に糾弾される覚えはない。それに彼が良心や善意だけで動くとも思えなかった。
そう、首を傾げると。
「……はぁ、」
わかりやすく呆れられてしまった。
大袈裟なまでの溜め息。眉間に刻まれる山脈。どうやらまた彼の地雷を踏んでしまったらしい。
心の機微を察することすらできないなんてつくづく自分が嫌になる。とんだ欠陥人間だ、と名前は自省する。だが乱数はそんなものを求めていたのではない。
「も〜!細かいことはいいじゃん。ボクは愉しいことだけしていたい。ね、ウィンウィンでしょ」
利害の一致だと乱数は言う。
彼は快楽を求め、名前は思考の放棄を求め。ただふたり堕ちていくだけなのだ、と。
「……それでいいのかしら」
けれどそこに必然性はない。名前が堕ちていくのが絶対だとしても、彼がそこに巻き込まれる必要はない。快楽だけを追いかけるなら名前が相手じゃなくてもいいはずだ。それこそもっと健全で、清く正しく美しい結末を迎えられる女性であっても。
いいはずだろうと名前は暗に問うが、乱数には綺麗に無視されてしまう。
「ボクの優しさに感謝してよね」
なんて。笑って、彼はまた名前の頬をつねる。けれど今度ばかりは名前も抵抗しなかった。
「そうね、その通りだわ」
彼は優しいのだ。善い行いを成す人ではないかもしれないけれど、名前にとって彼の手は優しさでしかなかった。その手が求めるのが法悦なのだとしてもーーいや、そうであるからこそ名前にとって彼は救いだった。このどうしようもない世界から目を背けるために。嫌なことなど考えなくて済むように。
彼の手が、いつだって名前を救ってくれるのだ。
……と、言うと。
「……やっぱりバカだよね、名前って」
「そう?学校では優等生で通ってた記憶があるのだけれど」
「そういう意味じゃないし」
「どういう意味?というかどうして顔を隠すの、私、あなたの顔を見るのが好きなのに」
何故だか彼はその麗しい面を手で覆い隠し。そうして深々と溜め息を吐くものだから、名前は不満を露にする。指の間から眼差しだけは窺えるが、それだけではもう満足できやしないのだ。
「……やだ。絶対見せてやんない」
「だからどうして、」
「やだったら嫌なんだって!」
「わっ、」
だというのに乱数は願いを聞き届けてくれなかった。
拗ねたような声。掌越しの会話は遠く、名前は距離を詰める。
と、声を上げた乱数にすかさずその体は引き倒された。
幼いようで骨ばった指先。再び深海へと落ちた名前には、けれど上を仰ぎ見ることすらできない。広がるのは闇。感じるのは自身の目元を覆う乱数の熱だけだった。
その熱は常よりも高いように思われた。だがそれを辿るより早く、名前の意識は奪われる。今度は唇に覆い被さる温もりによって。
「もう何も考えないで。さいごまで楽しく過ごそうよ」
またしても溶かされていく思考に、名前は安堵の息を洩らす。これでまた絶望は遠ざかる。考える暇もなくなる。名前はただ彼の熱だけ追いかけていればいい。彼のことだけを思っていればいい。
だから名前は頷いて、その背に手を回した。さいごの時まで共にあれるように、と願いながら。