帝統とギャンブラーの場合
別に人生に悲観したわけじゃない。多くの人のように、この世界に絶望したからでも。
ただつまらないと思った。結末のわかった物語なんてーーすぐそこに迫った死を唯々諾々と受け入れるなんてーーそんなの真っ平御免蒙る。
そう思ったから、名前は屋上に立った。
「この大バカ野郎が……っ!」
なのに彼は。有栖川帝統は、名前を引き留めた。その手を伸ばして、飛び立つ寸前の名前を掴んだ。
「どうしてあなたが、」
驚く名前に彼はにやりと口角を上げる。
「そりゃ俺に幸運がついてるからだろ」
そんなの理由になってない。
そう思ったけれど、言い返そうとしたけれど、しかし名前は口を噤んだ。
理由なんてなんだっていい。だってすべてはこの世界と共に滅ぶのだから。だから、なんだって構わない。名前が知る必要だってないのだ。それに知ってしまったらーー
「なぁこんなことやめとけよ」
「……貴方に関係ないわ」
その色を認めてしまったら、躊躇ってしまう。現にほら。もうすでに足は縫い止められている。目を逸らすことしか名前にはできない。そんな些細な抵抗しか。
「いいじゃない、勝ち負けのない世界なんて捨てたって。負けが決まった勝負なんて生きる意味ないわ」
この世界はじきに滅ぶ。どうしようもない理由で。人の手ではどうすることもできない理由で。滅んでしまう世界なんて、勝負師の名前には耐え難い。
それは、貴方だって同じじゃないのーー?
暗に瞳で問いかける。けれど、
「……それはお前の目が曇ってるせいだぜ」
「なんですって」
そんなこともわからないのか、と。言いたげに見返され、名前は思わず声を尖らせる。眼差しは鋭く、ナイフのよう。
だというのに彼は怯まない。名前を笑ったまま。世界にはまだ愉快なことがあるといわんばかりの顔で、ひとつの提案をした。
「賭けをしようぜ」
「は?」
「ここから落ちて死ぬか、それとも生きるか」
命を賭けた大博打だと帝統は笑う。
頭でもおかしくなったのかしら。そう名前は窺い見る。が、彼の表情に変化はない。その目は確かに未来を映している。
「そんなの賭けにならないわ。死ぬに決まってる。だってこの高さよ」
名前は危なげなく手を広げる。地平線の上で。手を広げ、下界がいかに遠いかを指し示した。
この高さならまず間違いなく死ねる。こんなつまらない世界から、結末から。縛られることなく生きたと証明できる。
そう言う名前に、「それじゃあ決まりだな」と帝統は答えた。
「俺は生きる。それにこの命を賭けてやる」
彼は己の胸を、その内側にある心の臓を拳で叩いてみせた。未だ脈打つ魂を。取り立て屋と債務者の関係でしかないというのに。それなのにその命を賭けると言うのだ。
「必要ないわ。飛ぶのは私の勝手。貴方はそこで見ていればいい。それでも賭けは成立するでしょう?」
「何言ってんだ。俺の賭けに他人の命なんて使えるかよ」
「なら賭けなんてやめなさいよ」
「それは嫌だ」
これでは駄々っ子みたいだ。名前には手に負えない。こうなったら彼の仲間を呼ぶしかないか。それはそれで癪なのだけれど……。
そう思案する名前を他所に。帝統は言葉を続ける。
「だってよ、今じゃみんなギャンブルなんざ興味ねぇってツラしやがって……つまんねぇだろ?こうなったらとびきりの賭けに出るしかないだろ、ギャンブラーとしては」
「それ、は……」
そしてその言葉は、名前から反論を奪い取るに十分だった。
名前は取り立て屋の娘だ。そして賭場を管理する女王てもあり、生粋のギャンブラーでもある。だからこそこの終わりゆく世界に飽き飽きしていた。賭けすらも成立しない世界に。
しかしそんな中でも彼は見つけたのだ。自分たちギャンブラーの心を揺り動かすものを。ーーとびきりの、ギャンブルを。
「いいわ、乗ったげる」
「よっし、それでこそ名前だ」
「何よ、それ」
さっきまでの曇りが嘘のよう。心に垂れ籠める霧が晴れ、名前はくすくすと笑みこぼす。とても純粋に、無邪気に。
笑う名前を、帝統は目を細めて見ていた。
そして、それから。
「それじゃあ行くか」
「ええ」
名前の手を取り、地平線に立つ。
足元から吹き上がる風。ゆらゆらと頼りなく揺れる感覚。目眩がするほど遠い地上。
それらを前に、二人は笑みを交わした。
「ぜってー勝つからな」
「言ってなさいな、私が負けるはずないんだから」
そうして、二人は飛んだ。
名前には確信があった。絶対なる死。誰にも避けようのない死。それが足元にまで絡みついているのを。
ギャンブラーの本能で感じ取っていたはずだった、けれど。
「天国ってこんな狭っ苦しいところだったかしら」
「んなわけあるかよ」
なのに名前はまだ生きていた。味気のない真っ白な天井を見上げるしかない体ではあったけれど。それでも息をし、思考し、言葉を紡いでいた。
そしてそれは、帝統も同じで。
「やっぱり賭けは俺の勝ちだったな」
なんて悪戯っぽい顔で笑っていた。
けれどもう、名前に反論の余地はない。
「……そうね、貴方の言う通りだったわ」
名前は呟き、窓の向こうを見る。
灰色の空。変わらず世界は終焉へと向かい続け、テレビもラジオもその話題で持ちきりで。つまらないことばかりの世界に色がつくことはなかったけれど、それでももう名前の心に虚無感も焦燥感も残ってやしなかった。
「ねぇ、帝統。賭けをしましょうよ」
「おう、いいぜ」
視線を移す。隣のベッドに横たわる彼に。その色鮮やかな瞳に。思いを乗せ、名前は口を開く。
「私は生きることに賭けるわ。例え他の人類が滅んだって私は生き残るって。……まぁ、隣に貴方がいるなら、って話なのだけれど」
言いながら、徐々に込み上げるは羞恥。らしくない言葉を吐いている。その自覚はあったから、最後には彼の目を見つめ続けることも叶わなかった。
そんな名前に、彼は笑みを深める。
「……それじゃあ賭けになんねぇだろ」
なんて、照れ臭そうに鼻を掻きながら。