妹弟子と新たな道


 楊ゼンと想いを通じ合わせて。だからといって名前の生活に大きな変化はなく、仕事と修行に追われる日々を送っていた。
 ……そのはず、だったのだけれど。

「やっぱり白がいいと思うわ!あたしもそうしたし、何より黒髪には白がよく映えるもの!」

「それを言うんなら紅もいいんじゃない?それより衣装は彼に任せるのが筋よ。私たちは他のものを用意しましょう」

「でもあの人に任せたら一色きりになりそうじゃない。そういうところには気が利かないんだもの。お色直しはするべきよ」

 呆然とする名前を挟んで。向かい合う二人の美女ーー蝉玉と蘭英は絶えることなく言葉を飛び交わす。見事な舌戦。女将二人はお互い一歩も譲る気配がない。……この邸の主である名前を置き去りにして。

「あ、あのっ!いったいなんのお話をされているのですかっ!?」

 わけがわからない、と。ようよう名前が声を上げたのは蘭英が「そうねぇ」と頬に手をやった時。思わしげな溜め息が落ち、二人が口を噤んだところ。これが好機。今を逃せば後はなかろうと、名前は戦場に立つ心持ちで口を挟んだのだった。
 そんな名前だったから、余程必死の形相をしていたのだろう。蝉玉と蘭英。以前は敵対し、今も考えの反する二人ではあるが、名前を見ると途端に顔を見合わせた。

「何って……」

「決まってるじゃないの、ねぇ?」

「ええっ!?」

 こんな時ばかり結託して。にやにやと込み上げる笑みを隠すことなく名前に向ける二人はひどく楽しげだ。混乱する名前がそんなに愉快なのか。まぁ確かに名前を揶揄う時の楊ゼンもよく笑っているが。
 ……と。目を白黒させる名前に、さすがの二人も不審を覚えたらしい。蝉玉は小首を傾げ、蘭英は片眉を上げる。おや、と訝しむ顔。そして率先して口を開いたのは蝉玉の方だった。

「あなた、本当になんにも知らないの?」

「で、ですから主語を……」

 そこからはっきりしてくれなければ話にならない。
 そう言外に訴えた名前に打ち明けられたのは耳を疑う内容だった。

「よよよ、楊ゼンさまっっ!!!」

「なんだい騒々しい……」

 常であれば仕事以外では立ち入らない楊ゼンの執務室。教主としてのそこに名前は勢いよく飛び込んだ。二人の美女と別れてすぐのことである。
 身一つで楊ゼンを訪った名前は肩で息をしながら彼を見上げた。

「けっ結婚するというのは真ですか!?」

 乱れる呼吸。震える声。それらを認め、楊ゼンも驚きに目を見開く。どうしてそれを。唇が象るのは名前の言葉が真実であるという証である。
 そう、蝉玉や蘭英が言ったのは本当のことだったのだ。冗談なんかではなく、本当にーー名前は楊ゼンと婚姻の儀を執り行うのだ。
 名前が諒解したのを楊ゼンも知った。知ったから、溜め息を吐く。

「……一応聞くけど、それをどこで?」

「蝉玉どのと蘭英どのからです」

「あぁ……張奎くんから洩れたのか」

 口止めしたはずなのに、と楊ゼンは頭を押さえる。曰く、準備に時間を取られるであろうから事前にお伺いを立てたのだとか。なるほど、張奎は楊ゼンに次ぐ地位を持っているし、話を通しておくのも納得だ。
 だが彼は妻にめっぽう弱い。それに隠し事ができる質でもなかったのだろう。たぶん口を滑らせてしまったのだ。そこから蝉玉にも伝わったのだと容易に察しがつく。

「君にはもっとちゃんとした場で話をするつもりだったのに」

 と、楊ゼンは臍を噛む。そんな彼を見下ろし、名前はとんでもないと首を振った。

「いえいえ!確かに驚きましたけど……でも楊ゼンさまから直接お伺いしていたら卒倒してしまいそうですから」

 これでよかったのかもしれないと思う。蝉玉たちから聞かされたのは正に青天の霹靂。驚きに倒れそうにはなったが、それは寸前で食い止められた。
 だが楊ゼンから直に聞かされていたらーーそれも彼特有の情緒溢れる雰囲気の中で伝えられていたらーーそれはもう驚愕だけでは済まない。驚きに途方もない喜びが加わり、とても正気を保ってはいられまい。
 そう言うと、楊ゼンは複雑そうな顔をした。それはそれでどうなのか。なんとも言えない表情の彼に、名前は「でも、」と懸念を露にする。

「こんな時に大丈夫でしょうか。まだまだやることは沢山ありますのに……これ以上楊ゼンさまのお仕事を増やすのは」

「いや、実際に執り行うのはもう少し先にする予定だし……。僕より名前の方が大変じゃない?」

「あぁ、確かに……」

 蝉玉や蘭英のはしゃぎぶりを思い出し、思わず遠い目をする。蝉玉自身の式の時もそうだったが、こういう行事に積極的なものがこの島には多い。名前が何かを頼まずとも率先してあれやこれやと世話を焼いてくれそうだ。
 それはそれで嬉しいことなのだけれど、と思いを巡らす名前の頬。そこに不意に触れる温もり。釣られ、目を上げると柔らかな眼差しとぶつかる。「でも、」楊ゼンは目を細め、言葉を続けた。

「その前にちゃんと挨拶に行かないとね。親迎……ってわけじゃないけど、君のご両親には、ちゃんと」

「楊ゼンさま……」

 またも震える名前の声。けれど今回ばかりは急いていたからでも驚いたからでもない。純粋に、ただ嬉しかったから。それだけ大切にされているのだと実感したからーー名前は瞳を潤ませた。

「でしたら、わたしも。わたしも楊ゼンさまのお父上にご挨拶したいです。せめて、あのお方には」

 通天教主。彼のことを名前はほとんど知らない。出会うより先に彼は正気をなくし、戦いの中で亡くなった。楊ゼンから伝え聞いたものしか名前の中にはない、けれど。
 それでも親は子を愛するものだ。楊ゼンの父親ならばーー彼を守るために崑崙山と取り引きをしたという通天教主ならば。深い愛情があったのであろうことは想像に難くない。
 だから伝えなければならないと思う。名前が楊ゼンを愛していること。何よりも大切に思っていることを伝えなくては気が済まない。
 そう、言うと。

「わっ!……楊ゼンさま?」

「君って人は、……本当に、」

 突然体を引かれた。と思う間もなくその身は楊ゼンの腕の中。顔を見上げることすらままならない距離で、名前は耳に落ちる声が頼りないものだというのを感じ取る。
 だから名前はその背に手を回し、そっと撫でた。

「……幸せになりましょうね」

「……あぁ、」

 答える声は掠れ、表情を窺い見ることすらできず。
 それでも名前を抱く手に力が籠るのだけは伝わってきた。ーーそれが、何よりの証だ。
 名前は微笑み、新たに誓う。この先も、共に。例え隠者の身に落ちようともこの思いと温もりだけは離しはしまいと、名前は己に誓うのだった。