妹弟子、答えを得る


 師に背中を押された名前は、善は急げとばかりにその足で楊ゼンの元を訪うことにした。……そうは言っても戸を叩くだけで心臓は嫌な音を立てたし、彼が「どうぞ」と言うのにも跳ね上がったものだったが。

「どうしたんだい、名前」

 教主の部屋。楊ゼンひとりが座す部屋はしんと静まり返っていて、仙人界の情報すべてが集約される宝貝の駆動音がいやに耳につく。
 そして楊ゼンはといえば、浮かぶモニターから顔を上げ、驚くほど優しい微笑を湛えるのだった。
 その顏の妙なることと言ったら!莞爾とした、であるけれど、淑やかさを失わないそれ。例えるならば、芙蓉。女であるはずの名前よりも余程繊細な造りに、けれど名前が感じるのは安堵とそれから……それから?

「ええっと……」

 ほっとしている。その気持ちに嘘はない。あの戦いの後。悲しみを乗り越えたこと。忙しない日々感じるのが疲ればかりでないこと。健やかな様子に安堵した。何より一番はそのはず、なのに。
 なのに心臓が煩いくらいに高鳴るのはどうしてだろう?
 いつからか感じるようになっていた不思議な感覚。この時も名前はそれに戸惑い、口ごもった。……立ち止まってしまったのだ。
 ーーそれが、いけなかった。

「でも丁度よかった。僕も仕事が一段落してね、少し話がしたいと思ってたところだったから」

「話、ですか」

「うん」

 先手を取られた。楊ゼンにそのつもりはなくとも、名前が感じるのは焦り。ゆるりと笑み、立ち上がるのすらーー歩み寄るのにすら、焦燥を駆られる。

「名前?」

「ぁ、……いえ、ええっと、」

 後退る名前。それはどんな鈍感者にでも異様に映ったろう。聡い楊ゼンならばなおのこと。
 何かあったのか、と。眉を潜める楊ゼンの、それでも変わらず麗しい容貌。美しい人は何をしても美しいものだと呑気なことを考える横で、名前の脳内は混乱の極みに達していた。
 話、と楊ゼンは言った。話がある。名前に。……名前だけに?
 心当たりは……ある。辿るまでも探るまでもない。原因と言えば先刻のこと。楊ゼンに断りもなく神界を訪ったことである。
 本来神界とは閉ざされた地。人でも仙人でもない、“神”の地は聖域であり、不可侵の領域だ。妄りに訪れることも許されてはいない、神聖なる土地。
 だというのに名前は己の欲のためにかの地を訪った。ただ師匠に相談したい、それだけのために。

「…………、」

 思い至った名前の顔。引いていくのは熱であり、塗り込められるのは蒼白の色。すっかり青ざめた名前にはもう嫌な想像しかできなかった。
 楊ゼンは話があると言った。確かに言った。そして心当たりとすればそれしかない。……ならば答えはひとつだろう。

「よ、楊ゼンさま!」

「うわっ」

「お話、ならば!わたしの方から先に!!」

 首にされるくらいなら。そうなる前に、せめて、と。
 追い詰められた名前にはもう躊躇いはなかった。最早露ほども。だから躊躇なく楊ゼンの手を掴むこともできたし、驚いた様子の彼に踏み留まることもしなかった。

「せめて最後にお聞かせください!わたしは……わたしは、あなたのお役に立てましたか?少しは頼りに……なれていたでしょうか、」

 目を瞬かせる楊ゼン。清らかな双眸に映る名前といったら余りに必死の形相。食い入るように見つめる名前に、さすがの楊ゼンも虚を突かれた様子だった。
 が、すぐにその目は溶ける。

「いったい何を言い出すかと思ったら……。勿論だよ、君にはいつも助けられている。今も、……昔もね」

 柔らかにほどけた目許。強張る名前を溶かすように、温かな指先がその頬を撫でる。
 宥める手つき。穏やかな揺りかご。釣られ、うっとりと夢心地に浸りかけーー用件は終わっていないのだと我に返る。

「そ、それはその戦闘面に関して、でしょうか」

「確かに戦いでも随分頼りにさせてもらったけど、……今だってほら、色々な雑務を僕の代わりに片付けてくれているじゃないか」

 ありがとう、と囁かれる言葉に喜びを感じる。それに間違いはない。けれど、名前の貪欲な心は“まだだ”と叫んで鳴り止まない。
 ……まだ、まだだ。わたしが欲しいのはそれだけじゃない。それだけじゃなくーー、
 そこまで考えて、はた、と気づく。武官の仕事でも、文官の仕事でもない。それ以外のこと。……とくれば、ひとつしかないだろう。

「……楊ゼンさま!」

「っ、次は何、」

「わたしは、公私共にあなたのお役に立ちたいのです。お仕事だけじゃなく、精神的な意味でも……あなたに頼られたい。共に支え合える対等な関係になれたらって、」

 分不相応にも望んでしまった。
 楊ゼンは今では教主の身。一介の道士に過ぎぬ名前とは随分隔たりが生まれてしまった。無論彼がそれを気にすることはなかったが、名前の中では大きな痼となっていた。知らず知らずのうちに。
 だからこそ確かな言葉を求めた。もしかしたら掟を破ったことで追放されてしまうかもしれない。ならばせめてそれだけは聞いておきたかった。伝えておきたかった。何より、彼に。
 ーーこの想いだけは、楊ゼンに伝えておきたかったのだ。

「神界に行ったことは……申し訳ありません。なんの弁解もしようがないです。ですがお陰でわたしは迷いを吹っ切ることができました。師匠に相談してよかった。正しくはなくとも、間違いだとはわたしは思いません。ですからどうか答えだけは……って楊ゼンさま?」

 名前は必死だった。いつ退去を命じられるか。わからなかったから、溢れる想いそのままに言葉を紡いでいた。楊ゼンの手を握り締め、彫像のように固まった顔を見据え。
 切々と語り続け、そうしてやっと彼が身動ぎひとつしないことに気づいた。

「楊ゼンさま?楊ゼンさまー?」

 その眼前で手を振り、声をかけ続け。

「……っ、」

 それから数秒の後。息を吹き返した時のように、楊ゼンの意識は帰ってきた。
 しかしその途端に彼は長々とした溜め息を吐いてしまう。「あぁまったく……」疲れきった様子に、思わず名前もたじろいだ。

「楊ゼンさま……?」

「あのね、名前……、さっきの台詞、まるで求婚してるみたいだよ」

 そんな名前に。
 楊ゼンは呆れた顔で言って聞かせる。その語調は小言を言うときのそれ。であるのに、にも関わらず……その目許は微かに赤らんでいた。
 それが熱病の類いでないことくらい名前にだって察しがつく。……彼が、照れている。その他の理由など考えもつかない。だから名前の考えは正しいはずだ。
 けれど楊ゼンの表情は間違いなく名前に驚きを齎した。驚きとーーそれから辺りが開ける感覚を。垂れ籠めていた霧が晴れ、意識が明瞭になっていく感覚。簡単に言えば、得心がいった。ただそれだけのこと。

「だから言葉はよく考えて……」

「いいえ、楊ゼンさま。わたしは何も間違えてなどおりません」

 それだけのことであったから、名前は顔を輝かせ、再度楊ゼンの手を取った。今度は縋るような頼りないものではない。未来を願う故の力強さでもって、彼の手を取ったのだ。

「きっとわたしの願いはそれだったんです。上手く言葉にできなかったけど……今ようやくわかりました。わたしは、楊ゼンさまの隣を歩んでいきたい。その許しが欲しいのです」

「名前……」

 呆気に取られた様子だった。楊ゼンは最初、ただ名前の勢いに呑まれるだけだった。
 ーーけれど。

「……まさか、君から言われるなんてね」

 その顔が不意に歪む。泣き出しそうにーーけれど心底嬉しいといった風に。恥も外聞もない。瞳に張った薄膜。瑞々しいそれは豊かな湖のよう。揺れる水面は彼の喜びの深さを示している。
 そんな飾り立てるものをすべて取っ払った姿で、楊ゼンはくしゃりと笑った。

「本当は今日、僕から言うはずだったのに。仙人界も落ち着いたことだし、いい加減約束を果たさないとな、って……」

「約束?」

「しただろう?隠し事は全部話すって」

 楊ゼンは名前の両頬を包んだ。そうして目を細め、秘密を打ち明ける秘めやかさでもってそっと囁いた。
 隠し事。それはまだ名前の記憶にも新しい言葉だ。けれどその時名前は自身の気持ちになど勿論気づいておらず、だからこそこの発言に目を丸くした。

「じゃ、じゃあさっきの話って……」

「うん、これのこと」

「なんだわたし、てっきり追放されるのかと……」

 ほっと胸を撫で下ろすと、楊ゼンはおかしそうに肩を揺らす。「追放って」そんなわけないだろう、と。

「君が師匠に会いに行ったのは気づいてたよ。でもまぁ一回くらいはいいかなって見逃してあげたのに」

「うっ……バレてましたか」

「そりゃあわかるよ。君のことはずっと見てきたんだからね」

 それはなんてことない台詞のはずだった。楊ゼンと名前。人としては随分と長い年月を共に過ごしてきた。紛れもない事実だ。
 けれど今の楊ゼンの声音には。親愛だとか、そういった名前にとって当たり前のものだけではない何かーー目も眩むような熱が孕んでいた。そんな気がしてならなかった。
 そしてそれはきっと間違いではなかったのだろう。

「……好きだよ、名前」

 飾り気のない言葉と共に降ってくるのは未知の感覚。唇に灯る熱。それは初めてのはずなのに、何故だか不思議なほど穏やかでーー温かなものが込み上げてきた。ずっとずっとこの温もりを求めていた。そんな気がしてならなかった。

「ーーお慕いしております。わたしも、あなただけを」

 離れた唇を今度は名前から追いかける。それもまた体に刻まれたもののよう。覚えはなくともわかっていた。こうするのが幸せであると。これこそが望みであると。
 遠回りの果てに答えを得た名前は、永い時を待ち続けてくれた楊ゼンに向けて、蕩けるような笑顔を贈った。