フーゴ√【前日譚】
アニメ12話登場のアニオリ(フーゴ過去編)の設定が出てきます。
サンタ・マリア・マッジョーレ教会。聖母の絵画を前に、ひとりの少女が膝をついている。跪いての礼拝。廃止するところも増えてきている現代で、この敬虔さは珍しい。
けれど彼女には相応しいと、ぼくはその背を眺めながら思う。清らかな彼女。名前には教会がよく似合う。裏切りや情欲といったものからは遠く切り離された彼女には。目の前の絵画に程近い彼女には。
その姿を眺めるのは、ぼくにとって心落ち着ける貴重な時間だった。まだ出会って一年も経っていないというのに。出会った当初はそれこそナランチャが騙されているんじゃないかと警戒していたというのに。いつからかーー彼女の穢れなさに触れるたび、凍りついていた心が溶かされていくのがわかった。
「あら、フーゴ。偶然ね」
彼女に微笑を向けられると詩の一節ばかりが脳裏を過る。ギリシャの船だとか彫刻だとか。清き聖なる国からきた魂そのものーーなんてバカげたことすら考えてしまう。
そんな空想を断ち切って、ぼくは振り返る彼女に歩み寄る。
「あなたもお祈りに来たの?」
「ええ、まぁ。そんなとこです」
……嘘だ。
本当は彼女がこの教会に立ち寄ることを知っていた。早くに仕事が終わった時。勤め先のリストランテから一番近い教会に足を運ぶことを。その習慣を知っていたから、ぼくは今こうしてここに立っている。
かといって別段用事があるわけでもない。ただ彼女の顔が見たいと思った。不意に。それはこのところよく起こる発作のようなもので、特に“仕事”を終えた後なんかにはもれなくくっついてくる衝動だった。
そんな感情など露知らず。名前は疑いの一片もない眼差しを向ける。
菫の色。ユーラリーの色。女神に愛された色。澄んだ目で名前はぼくを見る。親愛の籠った目で見る。
それは擽ったくもあったけれど、同時に例えようもない心地よさをぼくに与えてくれた。
ヒワの聖母みたいだ、とぼくは思う。穏やかな美しさ。そうしたものを感じ取ったから、ぼくもまた抑えようのない苛立ちから解放される。彼女とーー名前と共にいると。
「さて、この後のご予定は?」
名前に倣い、形ばかりの祈りを捧げる。そうしてから彼女は小首を傾げてぼくの目を覗き込んだ。
そうすると結い上げられていない横髪がさらりと頬を撫でる。白絹のヴェールのように。然り気無く流れる髪の一筋すらも絵画の聖母は敵わない。真昼の澱みない光でさえ。夜の濁りない星々でさえ。
「いいえ、特には。仕事も終わったのでどうしようかと考えていたところです」
これもまた嘘。けれど名前は偶然を無邪気に喜ぶ。
パッと華やぐ表情。うきうきとした様子で名前はぼくの手を取った。
「そうなの?じゃあメルカートにでも行かない?私のティーカップが割れちゃって」
「……それ、どうせナランチャが壊したんでしょ」
「運悪く落ちちゃっただけよ」
悪いのは落ち着きのないナランチャだ。なのに名前は気にした風もなく笑っている。笑いながら、「でもこうなるんならついてたってことかしら」と悪戯に瞳を輝かせた。
「こうしてフーゴとお出掛けする口実ができたんだもの。ふふっ、ラッキーね」
「……別に、買い物くらいいつだって付き合いますよ」
「本当?約束よ」
名前は躊躇いなく触れる。激昂しやすいぼくに。多くの人を殴ってきた手に。触れて、温かなものを分け与えてくれる。暗く澱んだぼくの心に。嘆きの谷を越え、ぼくを照らしてくれるのだ。
「あっ、」
「なんですか?」
背伸びした彼女。そのたおやかな指先がぼくの頬を掠める。
「血がついてるわ」確かに彼女の言う通り、その白い指は微かに赤みを帯びていた。
「おかしいな、拭いたと思ったんですが」
「ほんの少しだけよ。でももう乾いちゃってるから顔を洗うか……あ、ハンカチ濡らしてきましょうか」
「いえ、いいですよ。そこまでしなくても。目立たないんでしょう?なら後で拭いておきます」
名前はなんの躊躇いもなくぼくに触れる。けれどそこに色はない。かつてぼくが尊敬していた人のようには。ぼくの容姿ばかりを取り上げて判断するような人とは違って。母が子にするような無垢さで、彼女はぼくに触れてくる。
その温もりに安堵する。激昂しやすい質だと知っても距離を置かない彼女。聖母のように何もかもを受け入れてくれる彼女に、ぼくは、
「でもあんまり派手にやっちゃダメよ?私の心臓が持たないわ」
「わかってますよ、それにこいつは返り血です」
「ならいいけど……」
情欲は穢らわしいものだと思っていた。あの日、尊敬していた教授に迫られた時。権力を盾にぼくを利用しようとした裏切り者を見た時に、情欲とはなんと薄汚れたものかと軽蔑した。
けれど今、ぼくが彼女に抱いている感情はなんだろう。純粋な、聖母を慕う心ーーそればかりでないことは確実だ。
かといってあの男のようにもなりたくない。彼女の清らかな美しさを永遠のものとしたいのも真実。相反する心にこのところのぼくは悩まされ続けていた。
「さぁ決まったなら早く行きましょう」
「あら、結構ノリノリね」
「時間を無駄にしたくないだけですよ」
しかしそれすら心地いいと思ってしまうのだからーーこれはもう熱病としか言いようがないだろう。
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エドガー・アラン・ポー『ヘレンに』『ユーラリー』等より引用。