フーゴ√【クリスマス】


 人混みの中、彼女を見つけることができたのは幸運と言っていい。偶然にしろ、ーーいや、であるからこそ。ぼくですら朧気に神の存在を感じてしまう。
 雑踏の中であっても彼女の周りだけはすっと静謐な気配が漂っていた。鎮守の森にでも足を踏み入れたみたいに。涼やかで、心地がいい。その静けさがぼくは好きだった。

「……名前!」

 だからぼくは声をかけた。一も二もなく、考える間もなく。足は人混みを掻き分け、少女の名前を呼んでいた。
 振り返る彼女と一緒に翻るのは金の髪。蜂蜜か、或いは真昼の日差しを溶かし込んだみたいな見事な色。それが波打ち、光を放つ。

「驚いた、偶然ね」

 白皙の顏に嵌め込まれた紫水晶。それが驚きに見開き、次の瞬間にはゆるりとほどける。ぼくを認めて、……親愛の情を滲ませる。
 この変化を見るのも好きだった。我ながら女々しいと思うがーー彼女に想われていると実感できるから。
 しかしぼくの顔は平静を保っていた。内心など露ほども見せず、ぼくは然り気無さを装って訊ねる。

「ええ。……ところであなたは何を?」

 予め確認するのは同行者がいるかどうか。彼女一人なのだと判断し、それからぼくは聞いた。
 彼女のしなやかな腕にはそれとは不釣り合いなほど大きな荷がある。紙袋から覗くのはバゲットとパスタ。ならば食材の買い出しに来たのだろうという予想する。
 そしてそれは正解であり、だがひとつ、思いもがけぬ言葉がもたらされた。

「ほら、もうすぐクリスマスでしょう?私もご馳走用意しなきゃね」

 荷をひとつ持ってやると、名前は「ありがとう」と微笑む。が、ぼくにはそれに答える余裕がない。クリスマス。その単語によろめく足を抑えるだけで一杯だった。
 クリスマスと言えばこの国では重大なイベントだ。だがぼくから言わせればなんてことはない普通の一日である。どこの店もやっていないから多少の不便さは感じるが、精々それくらいだ。ミサには参加するが、他の人ほど敬虔な気持ちはない。
 だってぼくには家族がいない。いや、存命という意味なら確かに存在はしている。が、絶縁状態であるから互いに存在しないと認識していた。ぼくも両親も。それが最適で最善であった。
 だから家族で過ごすのが当たり前のクリスマスというものが、ぼくには少々居心地の悪いものだったのだが。
 ーーけれど、彼女にとっては違うらしい。

「……ナランチャの家で過ごすんですか」

「え?えぇ、そうね。だってあそこが私の家だもの」

 名前は何てことない風で言葉を紡ぐ。自分の言ったことになんの違和感も持たず。ナランチャとクリスマスを過ごすのが当たり前だといった感じで。
 言うものだから、自然表情は険しくなる。「フーゴ?」訝しむ彼女に取り繕う余裕すらなく。

「……いえ、いいんじゃないですか」

 ようやっと言えたのはそんな台詞。突き放したような語調。
 ……下らない。こんなことで捨て鉢になるなんて。
 わかっているのに体は言うことを聞かない。言葉は冷たく、吹き荒ぶ風のよう。彼女もきっと気分を害したろう。その証拠に柳眉はひそめられているしーー、

「もうっ、何を他人事みたいに言ってるの。あなただって一緒でしょう?」

「え?」

「だからクリスマス、あなたも私たちと一緒に過ごすんでしょう?」

 彼女は口を尖らせる。そうすると清らかな容貌も相まっていたいけな少女のようだ。
 ……いやいや。なんてのはこの際どうだっていい。そうじゃない。重要なのは今の言葉ーー彼女は今、なんと言ったのだ?

「ぼくが?あなたと?」

 未だ飲み込めず、行儀悪くも彼女と自分とを指差す。そうしても彼女が否定の語を紡ぐことはない。ただ一言。「ええ、そうよ」肯定の言葉を溢し、それから名前は不思議そうに首を傾げた。

「ええっと、……もしかして聞いてなかったのかしら」

「ええ、心当たりは何も」

 答えると、透き通る瞳がぱちりと瞬く。「おかしいわね」困惑に揺れる声。眉尻を下げた彼女は記憶を遡り、白い息を吐く。

「ナランチャから言い出したのよ。彼があなたを誘うって。だから私はお願いねって言っておいたはず、なんだけど……」

「ナランチャが……?」

 言われ、ぼくも記憶を浚う。覚えはいい方だ。だからそんな大事な約束、告げられていたら忘れるはずもないのだけれど……やはり、心当たりはない。
 ーーと、いうことは。

「……忘れちゃったのね、きっと」

「ナランチャのヤツ……」

 こんな大事なこと、置き去りにされるなんてとんでもない!
 名前は「まぁまぁ」と取り成すようにぼくの肩を叩くけれど、悪いがこれに関しては一言言ってやらねば気が済まなかった。ーー頼まれ事はしっかりメモしておけと言ったろう!まずはそう、そんなところからか。

「でも、ね?私も悪かったわ。最初にあなたを誘ったらどうかしらと言ったのは私だったんだもの。だから私がちゃんとあなたに話をつけておくべきだったわ」

 しかし彼女は心優しき聖母。故に争いを好まず、こうして宥めるような言葉を選ぶ。

「……あなたがそう言うなら」

 そしてそれに素直に応じてしまうぼくのなんと従順なこと!愚かしいと思うのにどうしようもない。
 ぼくは不承不承という顔で顎を引いた。しかし冷えきっていた心が温もりを思い出したのもまた事実。まったく、単純にも程がある。
 だが悪くない気分だった。誘いを了承した。それだけで花開く彼女の顔に心は沸き立つ。先刻まで不機嫌だったのが嘘のよう。雲は晴れ、隙間からは冬の日差しが玲瓏と差し込んでいた。
 ぼくは現金にも晴れ晴れとした気分で「でもいいんですか?」と軽口を叩く。

「クリスマスといやぁ家族と過ごすもんでしょう?ぼくの割り込む余地があるんですかね」

 ぼくは浮かれていた。彼女がさしたる意図はなくともぼくを誘ってくれたという厳然たる事実に。浮かれ、口角を釣り上げる。
 ーーと。

「……わかってないのね、あなた」

 名前は呆れた風に。或いは落胆したといった具合に。肩と声とを落とし、溜め息を吐いた。

「わかってない?」

「ええ、そうよ」

 この期に及んでぼくはまだ勘違いをしているのか。もしやクリスマスの誘いなど都合のいい妄想で……だがしかし彼女は確かにそう言ったはず、だが……?
 明晰と言われた頭脳はいつの間にやら衰えてしまったと見える。ぐるぐると思い悩むも一向に答えを導き出せないぼくに。
 名前は、

「あのね、私はーー家族にならないか、って言ってるの」

 女の子にこれ以上言わせないで。
 彼女はそう言って、くるりと背を向ける。
 軽い語調。冗談めかした物言い。けれど、でもーーその前に言った声音は、表情は、眼差しは、ーー真剣、そのものだった。

「ま、待ってください!」

 はたと思い至り、ぼくは慌てて声を上げる。が、存外に彼女の身は軽く。既にその影は雑踏に消えゆこうとしている。
 しかし、だからといってこのままにもしておけない。ぼく自身のために、だけではなく。名前とぼくの未来のために。
 ぼくは急いで悪戯な影を追う。まずは掴まえて、ちゃんと顔を見て、それから、そう。返事をしないといけない。いや、その前にぼくから切り出さねば格好がつかないか。

「ねぇ名前、お願いですから……ぼくと家族になってくれませんか」

 そう告白すると。ぼくだけの悪戯な聖女は微笑んで、頬に唇を寄せた。

「答えはもちろんスィ、イエスよ!」

 その瞳が雪の結晶よりも輝き、途方もなく美しかったのをぼくはきっと生涯忘れないだろう。
 その温かな体を抱き締め、ぼくは幸せを噛み締めるのだった。