ブチャラティ√【悲恋end】
【ブチャラティ√】が【原作通りに終わり】、【悲恋エンド】を迎えたら。
意識が浮上する感覚に、名前は自分がたった今まで転た寝をしていたことに気づいた。
「目が覚めましたか」
向かいには少年が座っていた。直に青年期へとかかろうという、端正な面立ちをした彼。
ジョルノは出会ったばかりの頃より幾分か鋭さを増した瞳を、けれど今は優しく和らげ、名前を見つめている。
だから一瞬わからなくなる。まるで時間が巻き戻ったかのよう。十五歳の彼と十七歳の名前。まだ何も喪わず、そして何も手にしていなかった子供の時分に戻ったような錯覚に陥った。
「でもちょうどよかった。ぼくらの街が見えてきたところですよ」
けれどそんなのは都合のいい幻。それは名前自身がよく知っていた。何しろ今の今まで見ていた夢。出征の夢。砂洲の夢こそが何よりの証だったのだから。
「もうこんなところまで来ていたのね」
名前は呟いた。独りごち、車窓を眺めた。
この国が誇る最速列車、イーエススターはぐんぐん景色を追い抜かしていく。それは時間を取り戻してから二年も経っていない名前には目が回るくらいの速さ。光陰矢のごとし、とは言うが、それにしたって時間というのは余りに容赦ない。
それをかつての名前は厭った。恐れ、忌避した。己の時間を止めることでその心を守ろうとした。ーーかつての、弱い名前は。
けれど今は。多くのものをーーそう、本当に多くの大切なものをーー喪ったけれど、それでも名前は生きていくことを選んだ。普通の人と同じ時間を生き、歩んでいく。そう決めた名前の体は今ではもう少女のそれではない。十九歳。大人になるのは時間の問題だった。
「まぁでも、あんまり風情ある景色じゃあないですけどね」
「……そうね」
灰色の風景に二人は揃って苦笑した。
コンクリートの群れ。ビルや工場で埋め尽くされたナポリの入り口。海の玄関は『ナポリを見て死ね』と言われるほどに美しい。が、山間部を抜けていく道はそれとは程遠かった。
「でも、……どうしてかしら。嫌いじゃないの。今、こうして見ていると」
命の息吹は微か。なのにどうしてだろう。見慣れた街が近づくにつれ、名前の胸に沸き上がるのは望郷の念。わけのない愛おしさが胸をついた。
「そうですか。……ぼくもです」
大人と子供の間でジョルノは微笑んだ。赤いシートに深く腰掛け、ゆったりと。囁く声は水面に落ちる雫。二人きりの個室は静寂で満たされていた。
ジョルノは続けて「あなたがいてよかった」とも言った。あなたがーー名前がいてくれて。
そして名前は「それは私の台詞よ」と答えた。
「あなたがいなきゃ、私、きっと決心つかなかったわ」
目を伏せる。そうすればまだ鮮やかに思い出すことができた。今回の目的地、ミラノでのこと。過去と現在の芸術が調和する街で訪った女性のこと。心優しい青年を息子に持った人のこと。
彼女は息子の職業を知らなかった。彼が何を思い、何を願ったのか。その一端すら知らされず、けれど母親の直感で見抜いていた。
『いつかこうなる日が来るような気がしていたの』
悲しい報せを齎した名前たちに。涙を拭って、女性は言った。母親の顔で。途方もない悲しみを湛えながら、愛おしさを溢れさせた瞳で。女性は遠く旅立った我が子を語った。
優しい子だった。自分よりも他の誰かを気にかける。そういうところが誇らしくもあり気がかりでもあった、と。女性は語り、名前たちに礼を言った。すべてを詳らかにすることのできない名前たちに。それでも、と。
『ありがとう。ブローノのこと、知らせてくれて』
彼と同じ美しい黒髪を靡かせて、彼女は名前の手を握った。
「…………、」
その手を見下ろす。
ーー何も掴めなかった。何より大切にしていたものも。愛おしいと思った人たちも。愛していると、囁いてくれた人さえ。
多くのものを喪った。今でもあの日を思うと胸が軋む。泣きたくなる。かえりたいと、願いたくなる。
ーーけれど、
「夢を見たのよ、私。ううん、もしかしたら私が忘れてしまった過去の話かもしれないけど」
なんの兆しもなく。口火を切った名前に、しかしジョルノは口を挟まない。静かに見つめ返し、その続きを促した。
「彼がいたの。窓辺に立っていたわ。その向こうには船があって、夕刻の鐘が鳴り響いてた」
だから名前は言葉を紡いだ。取り留めのない話。頼りない夢の残滓を追いかけた。
空には深い黄昏が垂れ籠めていた。足元には深い夜の闇が広がっていた。海原は果てしなく、恐ろしげなまでに遠かった。
それらを見つめて彼は言った。
『哀れと思うか?』
オレを、と。問う声に名前は首を振った。『いいえ、まさか』彼という人がどういう人なのか、名前はよく知っていた。悲しくなるくらいに、よく。
『あなたはそんな人じゃないわ。眠るのは目覚めるため、そう思う人だもの』
『……あぁ、』
その通りだ、と彼は微笑んだ。しかしその微笑すらもどこか遠い。隔たり。深い深い隔たりが二人の間にはあった。
けれど悲しむことはないと彼は言う。
『人間はいずれ永遠に還るもの。“時間と空間の境”を越えて、神の御許へと』
その声は穏やかだった。名前には主のものと感じられるほど。穏やかで、すべてを受け入れた声だった。
『だから泣くなと言うのね』
そんなだったから、答える名前の声は詰るよう。そう言わずにはいられないほど、あまりに彼がその運命を悟っていたから。だから『酷いわ』と名前は彼を責めた。
しかし彼は困ったように笑むばかり。『すまない、』そう言って、名前の頭を撫でた。いつもみたいに。
けれど感じる温もりは記憶のもの、想像のもの。今確かに触れている、その実感には乏しい。はっきりと感じ取れるのは彼の声だけ。それ以外は不明瞭。曖昧模糊として、心は薄氷の上。
その感覚を振り払い、名前は見上げた。彼の顔。徐々に輪郭すらぼやけていくその顔を見つめ、微笑んだ。
『いいわ。そんなあなただったから、私は好きになったんだもの』
ーーガタン、と体が揺れる。
名前は握っていた手をほどいた。そこには一握りの遺灰すらなく、終日語り合ったことも今は遠い海の彼方。
「でも、……不思議ね。彼の声だけは今でもよく覚えているの」
好きだ、と名前が言った後。彼はその輪郭をするりと撫で、『オレもだ』と答えた。……答えてくれた。
『愛していると囁き続けよう。風に、鳥に、せせらぎになって。お前が忘れることのないよう、いつだって』
その夜鳴鶯のように心地いい声は未だ耳に。形を変え、姿を変え、名前に語りかけていた。約束の通りに。
「……彼は約束を違えたりする男ではありませんから」
「ええ、本当に。憎らしいくらいに優しいんだもの」
やがて列車は止まる。二人の暮らす街。彼の愛した地へと。
「あなたはどうしますか?」
一足先に立ち上がったジョルノは名前を見た。静かな目。かつては不釣り合いだったそれだが、今はもうすっかりその顏に馴染んでいる。
けれどそれは彼だけじゃない。きっと名前も。この二年は小さくはない変化を齎しているはずだ。
それを悲しく思う。彼の面影を、思い出を、やがて掌から零れ落ちていくものを。失い続けることはどうしようもなく悲しいものだ。
「……一度国へ帰ろうと思うわ。組織も落ち着いたし、やっぱり両親にも挨拶しなくっちゃ」
「……そうですか」
「それでもし……ボスの了承が得られるなら。いいって許してくれるなら。……私、ここで働きたいわ。この先もずっと、この街のために」
そう言って立ち上がると、ジョルノは少し目を見張った。その顔を名前は見上げる。この二年で広がった距離を。高くなった目線を。見上げ、けれど以前と変わらぬ親愛の籠った笑みを送った。
「……それは、ぼくにとっても幸運なことです」
ジョルノもまた、出会った頃と同じ微笑を口元に浮かべる。
失うことはどうしたって悲しい。だがだからといって今の名前は立ち止まるわけにはいかなかった。
彼には目的があった。悲願とも言うべきものが。それをジョルノから聞かされた名前に、逃げるという選択肢は最初からなかったのだ。
だから名前は選んだ。彼と願いを同じくするジョルノと共に歩む。その道を。このネアポリスという街を守り続けたいと願うようになった。
名前は駅に降り立った。お世辞にも治安がいいとは言い難い街。パッショーネが麻薬根絶を看板に掲げたからといって、この社会が一変するわけじゃない。
だがすべてのことに意味はある。そう名前は信じているし、そうでなければやがて辿り着く“永遠の地”にて彼に顔向けできなくなってしまう。
「さぁ、早く帰りましょう。ぼくらの抜けた穴はミスタがなんとかすると自負してくれましたが……」
「ミスタがどうかはわからないけど。でもフーゴがいるから大丈夫じゃないかしら」
「いやあれで彼もなかなか……」
「ふふっ、それもそうね……」
笑い合いながら駅を出る。
と、途端に吹き付ける冷ややかな風。肩を震わし、慌ててマフラーに口元を埋める。吐く息は凍え、黄昏時の空は暗い。すぐ近くでは夕刻を告げる鐘が鳴り響き、石畳を歩む足を急き立てた。
カンパニア州ナポリ。この街にも、彼のいない二度目の冬がやって来ようとしているのだった。
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アルフレッド・テニソン『砂洲をこえて』
ロバート・ブラウニング『アソランドウのエピログ』
ウィリアム・コーリ『ヘラクレイトス』
等より引用。