ミスタ√【後日談】


『ミスタ√』かつ『本編が原作通りの結末を迎えていたら』





「ナランチャたちに会いに行きたいの」

 名前がそう言った時、ミスタは僅かに目を見張った。けれどその口が驚きを露にすることも、問いを連ねることもなかった。
 彼はただ静かに頷いてくれた。

「いいぜ、付き合ってやるよ」

 その言葉通りに。休日、ミスタは名前を日の下へと連れ出した。
 明々と燃える陽射し!眩さに名前は目を細める。
 あれは春のことだった。そして今は夏。季節はいつの間にか移ろい、魂焦がす盛夏がやって来たのだ。

「花、買ってくだろ?」

「そうね……」
 
 花屋にて。立ち上る色とりどりの芳香に包まれる体。移ろう眼差し。
 名前は少し考え、白い百合の花を手に取った。

『野の百合は如何して育つかを思え』

 そんなマタイ伝の一節と。同時に思い浮かんだのはイギリスの詩。

『ただ老いさらばえるよりも、一日の命を生きる白百合の方が見事なものだーー』

 それを思い出したから、名前はこの花こそが彼らに相応しいと考えた。
 ーー彼らは流れのほとりに植えられし樹。その死は滅びではない。実りある季節を導いたのだ、と。今ではそう思えるようになった。

「アイツらがそんな柄かァ〜?」

 だがしかし。似合わないだろうとミスタは笑う。「特にアバッキオなんかは」そう付け足すのを聞いて、名前も仄かな微笑を口元に刷いた。こんな話を聞いたらきっと彼は怒るだろう。そんな愉快な想像をして。

「あら、意外と信心深いのよ、彼」

「へえぇ」

 意外そうに。知らなかったと、そしてもっと早く知っていたらと。「そしたら揶揄ってやれたんだがな」なんて笑みを深めるものだから、名前も釣られてしまう。

「どうせ足蹴にされるのが関の山よ」

「まったく困ったヤツだぜ。カミサマだって敵を愛せって言ってるのによォ〜〜」

「確かに『汝、殺すなかれ』とは言われているけど……、でもきっとアバッキオのことだから『平和のために必要な犠牲』だとかなんとか言いそうだわ」

「違いない」

 くつくつと肩を揺らして笑うのは何時ぶりか。凍りついていた体は未だ冷たく時折音を立てて軋む。
 けれどその痛みをも今の名前は受け入れていた。“そういうもの”なのだと納得できるようになった。ーーかつて、まだ名前がただの子供でしかなかった時分とは違い。
 名前は差し出された手を取った。後ろめたさだとか後悔だとか、そうしたものを置き去りにして。ミスタの手を取り、仲間たちの眠る墓所へと向かった。

「久しぶりね、ナランチャ」

 小さな墓石。刻まれるのは何より大切に思うようになっていた少年の名。この世に二つとない、尊く美しい響き。
 それが冷たい石に抱かれて眠るのを見たくなどなかった。例え魂は天に昇ったのだとしても。ここにあるのはただの証だとしても。耐え難かったから、葬儀以来ずっと避けてきた。現実を直視するのが怖かった。怖くて、逃げ続けていた。

「遅くなってごめんなさい。でも私、ちゃんと自分の意思で来たのよ。あなたのことを辛いだけの思い出にしたくなかったから」

 けれど、今。花を手向け、十字を切り。そうして改めて彼がもういないのだと思い知ってもなおーー名前の心には穏やかな悲しみだけが広がっていた。
 それはひとえに彼がいてくれたからだろう。今この時もすぐ後ろに佇み、語りかける名前を見守る彼がいたからーーどんな時もミスタが明るさを絶やさずにいてくれたからーー名前はこうして自分の足で立っていられるのだ。

「ありがとうミスタ、付き合ってくれて」

 立ち上がり、向き直る。ミスタ。大切な仲間。苦しい戦いを乗り越えた友。そして今はそれ以上にーー大切な人、喪いがたい人へと。向き直り、名前は微笑んだ。

「そう改まんなって。お前の頼みならなんだって聞いてやるぜ?」

「まぁ、素敵な口説き文句ね」

「だろ?惚れ直したか?」

 ミスタの目はいつもと変わりなかった。いつも。日常の些細な出来事すらも愉快に引っくり返す彼特有のもの。冗談なのだと一目でわかる光を、けれど敢えて見ない振りをする。

「ええ、今ここで口づけたいくらいには」

「…………」

 平静を装った。……つもりだ。なんてことない、そんな語調。
 しかし内側までは取り繕えない。心臓は煩いくらいに脈打っているし、目はどんな小さな変化すらも見逃すまいとひとりでに凝らしていた。
 ミスタは息を呑んだ。瞬きすらも忘れて。凝視する目にたじろぎそうになるのを堪える。そうして、挑むようにその目を見つめ返した。

「……悪いが、そういう冗談は」

「冗談なんかじゃないわ」

 強張る声に咄嗟に手を伸ばす。その目が己だけに向けられることを望む。自分でも驚くほどに欲深く、必死になって。今度は名前からミスタの手を取った。

「このところ、ずっと思っていたの。あなたがいたから……以前とおんなじように笑いかけてくれたから……どれだけ救われたかって。……この先も、手離したくないって」

「名前……」

「だからお願い、許可をちょうだい。あなたを想っていてもい、そう、赦しがほしいの」

 それ以上は望まないと。切々と訴える名前に、しかしミスタが寄越したのは不満げな目。「許可ァ?」口をへの字に曲げ、眉根をひそめ。
 そうして彼が言ったのは。

「いいか名前、オレがほしいのはたった一言だ。たった一言、それがなくっちゃあ意味がない。オレがここまで恩を売った意味がな」

 そこにはもう不意を突かれた驚きはない。ミスタは名前に人差し指を突きつけ、にぃっと口角を上げた。
 その瞳には幾つかの色があった。春の陽気さとか夏の炎だとか。秋の真白い月光や冬の荒波までもがそこには同居していた。
 そしてそれはきっと名前も同じだった。

「あなたが好きよ、ミスタ」

「あぁ、オレも。ーー愛してる、名前」

 その一言だけで十分だった。語るべきことは二人の間に存在していなかった。だってそこにはなんの隔たりも存在しないのだから!ただ抱き合って、温もりを与え合う。それこそが必要なことで、最上の幸福であったのだ。