ナランチャ√【後日談】
【原作終了後設定】
ネタバレなし。
冬の朝は好きだ。ぴぃんと張りつめた空気も、乾いた風の音も。けれど何より一等好きなのは、人の温もりを強く感じることができるからだ。
「……ほら起きて、ナランチャ」
「ん、んん……」
そっと触れる手。その柔らかさ、温かさといったら!揺りかごのように心地がいい。慈愛に満ちた声。特別な響きを持った自分の名前。
「おはよ、名前……」
「おはよう、ナランチャ。今日もいい朝ね」
その菫色の瞳が好きだった。自分だけを見つめる目。真っ直ぐな眼差しはいつだって心を満たしてくれた。
ーーなのに、今は。
「むぅ……」
「なぁに、どうしたの?」
「別にぃ……」
昼下がり。一通の手紙を前に浮き足立つ名前。その姿を見つめ、ナランチャは頬を膨らます。
ーー気に食わない。
何が、というのではない。ただ無性に腹が立つ。苛々する。自分の知らない顔。知らない表情。知らない人を思う眼差しが、気に食わない。
穏やかな午後。だというのに、楽しそうに手紙を読み返す名前に、返事をどうしようかと悩む姿に苛立ちが募る。
では視界に入れなければいいのでは、とも思ったが、そうしたところで視線はいつの間にか彼女の元へ。それが余計に腹立たしいのだけれど、かといって彼女に怒りをぶつけたいのではない。
「名前はさぁ……そんなにソイツのこと好きなのかよ」
「え?えぇ、そうね、幼馴染みだもの。大切な仲間よ」
「へぇ……」
聞いたのは自分。だから悪いのだって他にいない。けれどナランチャの苛立ちは今ここにいない人へと。遠い異国の地にいる、名前の幼馴染みの男へと向けられた。
男ーー空条承太郎のことは詳しく知らない。ただ名前にとっては大切な思い出の一端、こうして遠く離れていたとしても忘れがたい人なのだということだけは知っていた。……その容姿が、男から見ても羨ましいほど優れているのだって。
「どうしたの、ナランチャ?進んでいないみたいだけど……」
「勉強なんてやってる気分じゃないよ……」
「そう?じゃあ休憩にする?オレンジジュース……でいいわよね」
席を立った名前。その目はナランチャを見下ろしている。……慈愛の色で。
「いやっ、やっぱ出掛けてくるッ!」
「そ、そう……?あんまり遅くなっちゃダメよ」
ーーこれではダメだ。
理由はない。ただ強くそう思い、ナランチャは自宅を飛び出した。
「それで気まずくなってここへ、っと……」
「うっ……」
辿り着いたのはサン・ドメニコ・マッジョーレ広場。そこにあるオープンカフェに見慣れた顔を見つけ、ナランチャは駆け寄った。
これこそが救いの手!聡明なフーゴならばこの悩みだってきっと解決してくれるに違いない。
そう思って事の次第を話したというのに、エスプレッソを飲んだフーゴは呆れた風に溜め息を吐く。
「勘弁してくださいよ。ぼくにだって都合ってもんがあるんです」
「で、でもよぉフーゴ……お前本読んでるだけじゃん」
机に突っ伏し、恨めしげにフーゴを見上げる。哀れっぽい響き。そんな語調にも彼の心は揺れなどしない。そう、名前とは違って。
冷たい眼差しのまま、フーゴは「これから名前のとこに行くつもりだったんです」と素っ気なく切り捨てる。
とはいえその程度のことで凹みナランチャではない。フーゴの相手をするのも慣れたもの。気にせず「へぇ?」と片眉を持ち上げる。
「なんか用あんの?」
「……ありますよ、君に話すつもりはないですけど」
「ハァ?意味わかんね〜……」
が、今日のフーゴは特別頑なだ。つれない上に煙に巻こうとする。
そうやって逃げられると追いかけたくなるもの。しかしナランチャの頭では彼が何を考えているかなど予想することすらできない。
となればもう言葉は意味を持たない。ナランチャの関心はフーゴの思考からその手元へと。ナランチャが来てから遠ざけるように裏返された本へ興味は移る。
「つーかさっきから何読んでんだよ」
「あっこらバカッ!」
そしてナランチャはすっかり気を抜いていた彼からその秘密を暴くことに成功した。スリの要領で本を奪い取り、その表紙へ。
「なになに……『日本の四季を歩く』……旅行雑誌か。なにフーゴ、お前日本に行くの?」
視線を走らせ、題名を読み上げる。写真がふんだんに使われた表紙。パラパラと捲ると、それだけで心踊る風景が散らばっていた。
旅行雑誌。というよりは日本という国の紹介だろうか。そんな内容の本は、しかしフーゴと結びつかなかった。何せ彼ときたらナランチャにはさっぱり意味のわからない本を読むのが常であったから。
そういった意味でナランチャは訝しんだ。別に彼が日本に興味があろうがどうだっていい。ただ意外に思った。それだけ、……だったのだけれど。
「……まぁ、いつかは」
決まり悪そうに。目を逸らしての答えは歯切れの悪いもの。その目元は微かに赤らみ、恥じらいを抱いているらしかった。
その姿に、ナランチャは目を瞬かせる。
けれどナランチャをさらに驚かせたのはその後。
「いつか?」
「……名前はそこの出だろ?帰ることだってあるはずだ」
フーゴのこの台詞に目を見開く。
……そういえば、そうだった。すっかり忘れていたけれど、名前の家族は日本にいる。いくらパッショーネにいることを選んだからといって、家族に会いたくないわけがない。自分から親元を離れたナランチャとは違う。名前には愛し愛される家族がいる。ーーそう、幼馴染みだって。
それは痛みを伴うものだった。目を逸らしていたものを受け入れる。「……まぁ、確かに」そう、平静を装って。
「けどよォ……なんでフーゴがそんなこと調べてんの」
「……いいだろ、別に」
本から目を逸らす。と、途端にそれはフーゴの手で取り上げられた。だからといって取り返す気にもならないが。
ともかく言葉を続けると、フーゴは拗ねたように口を尖らす。だがすぐに視線を戻し、ナランチャを見やった。
「……そんなに名前のこと手放したくないなら、いい加減素直になったらどうです?鬱陶しい」
鋭い眼光。逃げることは許さないといった目つき。射抜かれ、自分でも驚くほどナランチャは狼狽えた。
「な、なんのことだよ!っていうか鬱陶しいって、」
「鬱陶しいですよ、ほんと。うじうじうじうじ……らしくない」
混乱するナランチャを他所に、フーゴはやれやれと肩を竦める。そうしてから改めてナランチャを見つめた。
「ぼくはね、敵に塩を送るつもりなんざ毛頭ありません。けど、君のことは別だ。名前が君を大切にしてるのはよくわかってる。だから、まぁ……少しくらいは猶予をあげます」
「なんの話して……、」
ひどく真剣な目で。瞳で。訴えかけてくる目から、身動きが取れない。目を、逸らせなかった。
けれどまだわからない。フーゴの言いたいこと。いや、本当はわかっているのかもしれない。ただ、それと認めることがなかっただけで。心地いい今を守りたいというだけで。
「ほら、帰った帰った」
「お、おいフーゴ、」
「あれこれ深く考えることなんかないんですよ、君は。ただ正直な気持ちをそのまま伝えるだけでいいんだ。……羨ましいことに」
そんなナランチャにフーゴは笑う。憧憬に似た、憧れと羨望の入り交じった面差しで。ナランチャを立たせ、追いやって、それから。
「まぁ、ぼくが名前を日本に浚っても構わないってんならいいですけど」
悪戯っぽく。冗談混じりに彼がそう言ったのだとは理解している。理解している、けれど。
「それは嫌だッ!」
「……なんだ、わかってるじゃないですか」
咄嗟に飛び出たのは拒絶の言葉。想像する、それだけで肝が冷える。急速に感覚を失い、足元が覚束なくなる。切り立った崖に立たされているような、そんな錯覚を覚える。
「……ありがとな、フーゴ」
「やめてください、礼なんて」
だからーーそう、聡明な彼の言う通り。ナランチャはとうに理解していたのだ。一番の願いを。それを叶えるためにどうすればいいか、なんて。
「……なぁ、名前……日本に帰るなんて言わないでくれよ……」
「えっ……?」
ただ伝えればよかった。口にするだけでよかった。本当は、ずっと。
「ずっとここにいてくれ。……そう言いたかったんだ、名前」
フーゴに見送られ、帰宅した後。常と変わらぬ笑顔で出迎えた名前の手を取り、ナランチャは真面目な顔でそう告げた。本当に伝えたかったこと。彼女に願うこと、そのすべてを。
名前の目をしっかりと見つめる。ほんの数センチの距離で。
それが悲しくなることもあった。名前の幼馴染みがナランチャよりずっと大きなことに悔しく思うことだって。
ーーでも、それがどうしたと言うんだろう?
「オレさ、もっと勉強頑張るよ。それに身長だってさ、ちょっとは伸びてるんだぜ?これからは牛乳いっぱい飲むし、きっとさ、いい線いくと思うんだよ」
「え、っと……」
「……だから、どこにも行かないで」
これでは駄々をこねる子供と同じではないか。
そうは思ったけれど言葉は止まらない。ーー素直になったら。その助言に従うことしかできなかった。
見開かれた目に映る自分。宝石の中の顔はおかしくなるくらい必死。それでも掴んだ腕を離すことはできない。彼女の腕の細さ、柔らかさ、ーー頼りなさを知ってしまっているから。何より温かく、安らげるのを知っているからーー手離しがたい。絶対に譲りたくないと思ってしまった。そう、いくら彼女が“彼”を大切に思っていようとも。それでも、と願ってしまった。
「……なんだ、そういうことか」
「ナランチャ?」
「うん、よくわかったよ。オレ、名前のことすっごく好きなんだ」
瞬間、ひとつの言葉が浮かんだ。好き。ただその一言。それがすとんと心に落ちた。得心がいったのだ。自分がこれほど思い悩んだ理由。今があまりに心地いいから目を逸らしていた事実。
たったひとつの真実はあまりに単純明快。故にナランチャも思わず笑ってしまった。笑ったついでに、心をそのまま口にしていた。
そうしてから。びっくりしたまま、言葉を呑み込めずにいる名前を置き去りにしてーーその頬に口づける。
「えっ、え……?」
「へへっ……、どうだ!オレだってけっこーやるだろ」
目を白黒させた名前。そんな表情にすら愛おしさが募る。抱き締めたい。そう思ったから、もう躊躇うことはしない。
背中に腕を回し、抱き寄せる。しなやかな首筋。顔を埋めると石鹸の清々しさとミルクの甘やかさに似た香りが立ち上る。それはナランチャの好きな匂い。温もりだった。