フーゴ√【裏切りの夜】


【フーゴが裏切り者】で【ローマで襲われ】、【戦いに負けたら】の話。
死ネタです。





 雲間から月が顔を出す。今宵は月光すらも舞台装置。スポットライトとなって、白々と辺りを照らしてく。影を食らいつくしていく。

「……お久しぶりですね、名前」

「……フーゴ、」

 それはぼくらにとっても例外ではない。平等に、公平に。月明かりはすべてを詳らかにしていった。彼女の前に立ち塞がるぼくという存在。そして、名前の静かな眼差しも。
 名前に驚きはなかった。わかっていた。そんな風に、ぼくという敵を受け入れていた。あるのは諦念。それから一抹の悲しみが過ったように思えたのはーーぼくの都合のいい妄想だろうか。
 ともかく名前は落ち着き払った様子で、けれど決して自分からぼくに近づこうとはしない。警戒した様子。ぴりぴりと張りつめた空気は慣れ親しんだもの。でもそれを向けられるのは初めてのことだった。以前ならば絶対に有り得なかった光景。

「ははっ、そんなに睨まないでくださいよ。別にぼくは当たり前のことをしているだけなんですから」

 ーーぼくは思わずわらってしまった。楽しくもなんでもないのに。心は掻き乱れ、名前などつけようもないほど。だというのにーーいや、だからこそーーぼくは笑うしかなかった。
 当たり前のこと。そう、その通りだ。組織を裏切った彼ら。組織に従ったぼく。敵対するのは自然の成り行き。きっと彼らだって想定くらいはしていたろう。お優しい彼女がこんなにも冷ややかなのだから。
 でも名前はそれ以上の感情を見せなかった。怒りなどもっての他。挑発する台詞にも反応はない。ただ彼女が気にするのは仲間のこと。ローマ近くの漁村。ぼくたち襲撃者によって分断された彼女には他の仲間の安否などわかりっこない。だから彼女の一番の気がかりは彼らの無事であろう。それも当たり前のこと。
 ーーなのに、何故だか無性に苛立つ。途方もない絶望が胸に影を落とす。季節が死に絶え、枯れ果てていく心。夜の底に沈んでいく。ぼくという存在、そのものが。

「どうしてもそこを退いてはくれないのね」

「面白くない冗談ですね。生憎ですがぼくはあなたほど情け深くはないので」

「……そう、私はあなたと戦いたくはないのだけれど」

 瞳が翳る。夏を飛び越え、それは最早晩秋の色。迫る冬を受け入れるしかない。凋落の季節。ーー死の幻影。

「……ははっ、本当に、お優しい」

 それでもなお彼女は美しい。死の翳りすら身を飾る宝石。天使だろうと人魚だろうと、ーー構いやしない。
 そう思ってしまう自分にも嗤う。手に入らないもの。手の届かない蒼穹。故にそれは永遠の美を約束されているのだから。

「もう勝った気になってるんですか?へぇ?あなたにぼくが殺せるんですかね」

 口元が引き攣る。しかしぼくは嗤うのを止めない。ひりつく口角を持ち上げて彼女を、ぼくを嘲笑う。
 ーーたった一人の、たった一人の女のせいで、ぼくの魂はもう悲しくて、悲しくてしようがない。ぼくの心も魂も、とうに彼女から遠く隔たってしまっているというのに。
 ーーけれど。

「……いいえ、そうじゃないわ」

 ゆるりと頭を振る彼女。顔を上げた名前の瞳に横たわるのは憂い。

「優しいのはあなたの方。だってフーゴ、あなたはきっと傷つくわ。私を……仲間を殺したことに」

 そうして彼女は、未だ親愛の籠った目でぼくを見る。慈しむような色で。

「私は、そんなあなたなんて見たくない」

「……じゃあどうしろって言うんです?降参でもするってんですか?」

「いいえ、……私があなたを殺すわ」

 ぼくを見て、微笑んだ。ーー裏切り者のぼくを。
 自惚れていいのならその眼差しには愛情があった。そう、自惚れていいのなら。ーーこんな時になってもぼくは彼女の愛を求めているのだ!そしてそれはこんな時になってからぼくの前に齎された。絶対に手に入らないのに。

「その後で追いかけてあげる。あなたが寂しくないように。……ずっと一緒にいるから」

 それは太古の時代のキュベレー。すべてをその腕にて抱擁する女神の眼差し。

「……バカですね、あんたって人は」

 ーーどうしようもなく泣きたくなる。それは嬉しさからだろうか。悲しみからだろうか。そんなことすらもうぼくには判然としない。あるのはーーそう、純粋な愛しさだけ。
 今この瞬間になって、ようやくぼくは彼女に恋することができたのだ。なんの呵責もなく、自由に。

「ぼくも約束してあげますよ、寂しがりのあなたのために。あなたを殺してぼくも死ぬ。だから安心してください。もう傷つくことなんてないんですから」

 唇が弧を描く。それはひどく歪な笑みであったろう。
 心を押し隠すのは得意だった。昔から理由のない怒りを殺して生きてきた。普通の人と変わらないフリをしてきた。それが、当たり前だった。
 なのに今は。喜びも悲しみも抑えることができない。ともすれば涙が頬を伝いそうなほど。
 そんな、潤む視界の中。

「そう。……よかった」

 名前もまた、不格好な微笑を浮かべた。

「ーー本当に、お優しい」

 けれど、いくら通じ合えたからといって時間が止まることも巻き戻ることもない。ぼくたちは敵対し合ったまま。どちらかが死ぬまで決着はつかない。
 そして今、彼女の胸元は朱に染まっていた。

「…………、」

 ひゅう、っと喉が鳴る。渇いた呼吸。どろりとしたものが口元から零れ出る。ーーこれは、血だ。毒々しいほどの赤色が彼女を汚していく。その白い輪郭を踏み荒らしていく。それを止めることがぼくにはできない。
 だって、彼女の体を貫いたのはぼくのスタンドなんだから。

「勝てないってわかってたでしょう?なのに……あなたって人は」

 名前のスタンドは戦闘向きじゃない。パワーもスピードもぼくのスタンドの方が圧倒的に上。最初から彼女に勝機などなかったのだ。

「ん、……でも……あなたにそんな顔、させたくなかった、から……」

「……お人好し」

「ふふっ、……あなた、だけよ」

 泣かないで、と彼女は囁く。頼りない息。震える指先が持ち上がり、ぼくの頬へと。その輪郭を撫で、唇に触れる。

「ーーーー、」

 だからぼくはその体を抱き締め、口づけた。ほんの一瞬、掠めるように。
 ただそれだけで胸が詰まる。その温もりが遠退いていくのを感じて。恐ろしくて、口惜しくて、逃げる温もりを捕らえようと体を抱く手に力を籠める。
 そうしても彼女の頬は青ざめるばかり。凍えるようだ。もうこの地には冬が来た。
 ぼくはミゼーレでも弾いてやりたい気分だった。絶望の音楽。或いはバッハの果てしないフーガ。それとも鎮魂曲か?轟々と掻き鳴らし、神にさえ届けさせてやろう。ぼくと彼女のために。

「大丈夫、約束は、守りますから……」

 抱き上げた体はずしりと重い。名前の目はもう虚ろ。ぼくの声すら届かない。吐き出される息は魂と共に。留めようとしてもーーどうにもならない。
 それでもぼくはその体を手放せなかった。ぼくだけの彼女。この一瞬、今だけは、その死だけはーーぼくのもの。他の誰も知らない。ぼくだけのもの。せめて、その命潰える時だけは。
 共に在りたいと思った。生きることが叶わぬなら。せめてその終わりだけは共に、と。願ってぼくは、暗い海の底に沈んでいく。
 それでもぼくの手は彼女を抱いたまま。あぁ、これこそが救い。ただ一人の人間のただ一つの行為によって破滅が齎されたのと同じように、救済もまたただ一人によって行われる。
 つまりはーーそう。ぼくにとって、彼女こそがただ一人の神様だったのだ。








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アンケートより。ありがとうございました!
シャルル・ボードレール『美への讃歌』『功徳』
ジュール・ラフォルグ『ニースのノートルダム寺院のオルガン弾きの嘆きぶし』
ポール・ヴェルレーヌ『たった一人の女のせいで』
等より引用。