皎皎たり、雲間の月


 ーーこのベレッタ製の拳銃が手に馴染んで、どれだけの時が過ぎただろう。
 そんなことをぼんやりと思いながら、名前はビルの最上階を見上げた。厳重な警備の敷かれた高級アパートメントを。その屋上でたった今起きている出来事を見通そうとーー緊張で胃をひりつかせながらーー目を凝らしていた。
 名前が初めて人を殺したのは十二の時だった。父の偉大さだとか母の愛だとかそうしたものを知るよりも早く、名前は命の奪い方を学んだ。
 最初に名前を拾ったのは新興マフィアのボスで、名前の持つ不思議な能力をビジネスに役立てていた。
 そう、名前のスタンドーー当時はそんな名前も知らなかったがーー、それはマフィアの世界ではとても便利な代物だった。幸運なことに、或いは不幸なことに。
 それ故に路地裏から拾い上げられ、代わりに悪事の片棒を担がされるようになった。尤も、名前には何が善で何が悪なのかもわかっちゃいなかったが。ともかく名前は生と引き換えに家畜となる道を定められたのだった。
 けれどそんな日々も十二歳のある日終わりを迎えたのだ。とても暑い夏のある日、神の遣いによって。

「…………」

 その気配を探そうと、名前は車の窓から屋上を見上げた。見上げながら、主の帰還を待った。
 ーーその姿は月光の化身。周囲の者に畏怖すら抱かせる容貌。それは数分前と寸分違わない。表情も、面差しも。すべてがそのままで、一片の違和感もなかった。人を一人殺してきた。そんなの誰が見たってわかりっこない。サン・カルロ劇場にでも行ってきましたって顔だった。
 そんな彼は静かに歩み寄ると運転席のドアを開けた。

「待たせたな」

 そう言ってから車を出す彼に名前は小さく首を振る。彼の仕事はいつだって鮮やかなもの。素早く、正確に。無駄というものが一切省かれたそれは芸術的とも言えた。少なくとも、名前にとっては。

「……間違ってなかった?私の“視た”ものは」

 遠ざかっていくアパートメント。振り返ることはしない。それはもう終わったことだから。
 けれど頭とは別のところで名前には不安があった。いつだってそうだ。彼が完璧であればあるほどーー不安が付きまとう。彼に相応しいパートナーか否か。ただその一点において。
 彼は一瞬だけ名前に視線をやった。目を伏せ、膝の上に置いた指を落ち着きなく組み直す名前を。一瞥して、その頭を撫でた。

「自信を持て。お前が間違えたことなんか一度もない。そうだろ?」

 その手つきは丁寧とは言いがたい。乱暴で乱雑。とても年頃の娘に対する態度ではなく、それよりも弟にするのに相応しい所作だった。
 しかしその温もりこそが名前の最も求めているものだった。彼女の口元は微かに綻び、恥じらいを滲ませている。

「でも絶対なんてないから……。私のは予知じゃないし」

 名前の能力。スタンドは、対象の情報を読み取ること。そしてそこから未来の行動を予測することだった。だがそれはあくまで確率の話。未来予知の類いではなく、そこに確実なものなど存在しない。
 だから、名前は己の能力があまり好きではなかった。イルーゾォはホルマジオのスタンドをちっぽけなものだと言っていたけれど、それよりも名前の方が余程不確実性が高く扱いづらい。
 そう、己を卑下する名前に。

「……だがお前の情報があったからオレは今日ヤツを始末できた。それだけが真実だ」

 彼はもう一度くしゃりと頭を撫で、それから言葉を連ねた。

「例えお前の予測が外れたとして……そもそもオレがそれを想定に入れていないと思うか?オレがしくじると?」

 違うだろう、と。言外に籠められた言葉に、今度こそ名前はしっかりと頷くことができた。己のことは信用ならない。そのスタンドも、能力も。未来のことなど不確か。しかし彼のことだけは別だった。彼のことだけはーー信じることができた。
 彼、プロシュートのことだけは。
 十二歳の時、初めて出会った時から変わらない。プロシュートはいつだって真実だけを口にした。嘘など吐いたことがなかった。己の力に驕ることも、うわべを取り繕うことも。
 知っていたから、彼の言葉を信じることができた。自分自身より何より、名前はプロシュートのことを信じていた。

「……ありがとう」

 名前は呟いた。その声はささやかなもので、だからというわけではないがプロシュートは答えなかった。返事は必要なかった。お互いに、それを理解していた。
 名前は窓を流れる景色に目を向けた。代わり映えのしない景色。ネアポリスの街並み。そこに名前の目を惹くものはひとつとしてなかった。
 けれど美しいと思った。石畳の道も、星の散る夜空も。彼の隣で見るあらゆるものが美しかった。

「これなら試合が終わる前には帰れるな」

 彼はちらりと時計を見た。今は秋。サッカーの季節だ。だからナポリが本拠地のサッカーチームも今夜スタジアムで戦っている。
 イタリア人は大体がサッカー好きだ。それは彼も変わりなく。それとわかるほど大騒ぎをすることはなかったが、プロシュートはサッカー観戦を楽しみにしていた。
 それにサッカーは見る以外にも楽しみ方がある。

「今夜はどっちに賭けたの?」

 トトカルチョ。サッカーの勝ち負けを予想し、金を手に入れる。夢のある話だ。それに名前の得意分野でもある。さすがに全試合は当てられないけれど、メンバー内で山分けするくらいの金を得ることはできた。
 しかしプロシュートは名前の答えを知ろうとはしなかったし、自分の答えを教えることもなかった。そう、決して。
 この時も彼は首を振り、秘密を守った。

「お前は顔に出るだろ」

「……」

 彼の答えが名前と同じでも違っていても。きっとそれを聞いた名前は何らかの反応を示す。喜びか、落胆か。それは名前の答えを語っているといってもいい反応であるから、プロシュートは口を割ろうとはしなかった。

「……私のが合ってるかはわからないのに。予想外が起きるのもスポーツの面白いところでしょ?」

「いいや、合ってるさ」

「どうして?」

「勘だ」

 そう言われると反論できない。プロシュートの勘。この世界で長く生き、研ぎ澄まされたそれは名前のスタンドにも引けを取らない。むしろ名前としては自分のスタンドより余程信頼できるものだと思っていた。