明明たること月の如く


 名前に向けて放り投げられたベレッタ92。黒光りする銃身。ずしりと重い感触。弾は込められている。偽物なんかじゃない。それは名前の目の前、倒れ込んだ男の足から流れる血が何よりの証となっていた。

『お前には二つの道がある』

 名前に銃を渡した青年。彼は落ち着き払った様子でそう言った。眼差しにはなんの熱も灯っていない。たった今、男を撃ったばかりだというのに。ガタガタと震える男が、それでも内心の怯えを取り繕おうと皮肉げな笑みを向けているというのに。

『生か死か、その二つだ。そのどちらかをお前は選ばなくちゃならない』

 青年は神の如き様相だった。神のように理不尽に、冷酷に、無慈悲にーー命を刈り取ろうとしていた。
 この小さくはない組織。麻薬によって財を成した中国系マフィア。イタリアという地にも目をつけた彼らが現地の組織と抗争を始めるのにそう時間は必要なかった。ーー彼らが選択を間違えたのだと悟るのにも、また。

『言ったって無駄さ。こいつには命令しかわからない』

 それでもボスは認めようとはしなかった。認めることは身の破滅を意味していた。敗北は即ち死。虚勢を張ることだけが彼にできる唯一のこと。でっぷりと肥え太った男は嘲るような目を青年に向けた。

『大体こいつの力なんてのはただのイカサマだ。じゃなきゃあ今俺の足が使い物にならない理由がない、そうだろう?』

 男は名前の責任を問うていた。組織への襲撃。音もなく始まったそれを名前は予見できなかった。だって名前は命じられていない。青年のことも、彼の属する組織のことも。知らないものは視ることだってできなかった。
 でも名前は反論しなかった。それもまた命令の範囲外のことだった。命じられるまで口をきいちゃいけない。規則は名前を厳重に縛っていた。
 だがそれを苦に思っていたわけじゃない。名前はただ、目を奪われていた。青年の鮮やかな手口。彼が与えるのは眠りに似た死だった。
 それはあまりに安らかで、名前には救いのようにすら思えた。彼に与えられる死であるなら、きっとそれはこの魂すらも救済してくれるだろう。そんな予感があった。

『……オレたちはお前よりも多くのことを知っている。分を弁えるってこともな』

 青年は顔色ひとつ変えず、男の足を踏みつけた。今もまだ鮮血の滴る足を。傷口を。踏みつけ、踏みにじった。
 名前は青年を視た。プロシュート。それが彼の名前らしい。なんてことはない言葉。だというのに瞬間それは宝石のような輝きを手にした。
 男の悲鳴も恐怖に強ばる顔も意識の範疇になかった。名前にはもう青年しか見えなかった。その美しい死へどうしようもないほどの憧れを抱きながら、同時に彼のことをもっと知りたいとも思った。初めて名前に選択肢をくれた、彼のことを。

『っ……!』

 そして名前は、銃口を向けた。怒りも悲しみもそこにはなかった。ただ心地いいほどの静けさがあった。爽やかな風が吹き抜ける、そんな感覚すらも。



「おーい名前、……いねぇのか?」

 夢とは呆気なく弾けるもの。転た寝をしていた名前のそれも例外ではない。一声。ドアの向こうからノックと共にかけられた呼び声に、名前の意識は浮上する。
 目の前には煌々と照るディスプレイ。調べものを終え、情報を仲間に伝えたのが最後の記憶。パソコンの前、睡魔に負けてしまったらしい。
 記憶を辿り、溜め息を吐く。……通りで体が痛いわけだ。長時間固まった首や肩は強張ったまま。
 しかしドアの前の客人は諦めない。「おーい」名前が居るのを知っている。そんな具合でノックを続けられ、残る眠気を振り払って名前は立ち上がった。

「……なに、ホルマジオ」

 名前の部屋の前。立っていたのは強面の男。しかしそんな彼は存外にも気を遣うのが上手かった。ホルマジオとプロシュート、彼以外の仲間だったらノックなんてまどろっこしいことはしない。勝手に上がり込み、無理矢理叩き起こす。それだけならいいが、メローネなんかは何を仕出かすかわかったものじゃない。
 だからノックの段階で名前には訪問者の予想がついていた。プロシュートは今新入りと一緒に仕事に出ている。ならば対象はもう一人、ホルマジオしかいない。そう、わかっていたから名前は欠伸を噛み殺しながらも彼を招き入れたのだった。彼のことはプロシュートの次くらいに好きだったから。
 そんな彼は名前の様子を見て頭を掻く。

「悪い、寝てたか」

「ん、でもどうせ起きなきゃいけなかったから」

「そうか」

 名前に割り当てられたのは小さな部屋。パソコンの乗ったデスクと椅子。それからベッド。後は山積みの本くらいなもの。足の踏み場もないといった様相であったから、ホルマジオは考える間もなくベッドに腰掛けた。
 それから彼は一枚の写真を懐から取り出す。

「仕事だ。こいつの居場所が知りたい」

 名前は写真を受け取った。
 写っていたのは顔色の悪い男。浅黒い肌に落ち窪んだ目、乾いた唇。神経質そうに辺りを見回しているようだった。
 男は麻薬の売人らしい。売り上げを持ち逃げして一週間。別に殺すほどの罪ではないだろう。そう思ったけれど、これが初めてのことではないのなら……さもありなん。一度は返したようだけど、結局は借金に首が回らなくなって逃亡を図った、ということだろう。

「ちょっと待ってて」

 名前はパソコンに目を移した。プリントアウトするのは一枚の地図。その中からいくつかの建物をピックアップした後、名前は一ヶ所に大きく丸をつけた。

「これまでの行動からいって一番可能性が高いのはここ。疑り深いから仲間はいない。女も、たぶん」

 それを聞いてホルマジオは鼻を鳴らした。愚かなこと。そう嘲笑うように。

「無謀なことをする、たった一人で何ができるってんだ」

「そうしなくちゃどうしようもなかったんでしょ」

 名前は肩を竦めた。男自身も麻薬中毒に陥っている。金なんていくらあっても足りない。だから名前は絶対薬には手を出さなかった。
 それに尊敬するプロシュートも同じことを言っていた。『薬は弱虫のやるものだ』快楽や逃避のための薬は身の破滅を導く。プロシュートは売るのも買うのも忌避している様子だった。
 そんなことをぼんやりと思い出す名前に。

「ま、助かったぜ。ありがとな」

 ホルマジオは手を伸ばす。
 くしゃりとかき混ぜられる髪。その乱雑さはプロシュートのそれよりも強く、名前は眉根を寄せた。

「……いたい」

 でも文句はそれだけだった。それだけを言って、名前は唇を引き結んだ。
 悪くはない気分だった。そりゃあ尊敬する彼の与える心地よさには劣るが、それでも……嫌いじゃない。
 頼られること、褒められること。どちらもこの組織に身を寄せてから初めて知った。その言葉の齎す喜びがいかに大きいものかも。
 そんな名前を見透かしてか、ホルマジオは笑った。嫌味のない朗らかさで。笑うものだから、やはり名前は何も言えなかった。