人生は根蔕無し


 カーテンの隙間から覗く世界。小さな世界はしかし名前が情報を得るには十分だった。

「…………」

 けれど気を張ったまま、静寂のただ中にいるというのはなかなかに疲れるもの。しかも目当ての人影が建物から出てくる気配はない。埃舞うアパートメントの一室、名前はひとり息を吐く。
 次の標的はさる要人ーーマフィア撲滅を掲げる議員の一人だった。となると警護の手も強固。故に二手に別れ、プロシュートは議員を、名前は警護の者を調査することになった。
 とはいえ今回は手強そうだ。マフィアを相手にしている分、それだけ警戒心も強い。シチリアマフィアお得意の爆弾でも仕掛ければ車両ごと、親族もろとも爆殺できるだろうが……ボスの望みは静かなる死だ。
 ーーこれは長期戦も覚悟しておかねばならないだろう。
 そう考えた時、微かな足音が聞こえてきた。普通ならば聞き逃してしまうほどに細やかな音。階段を上っているらしいそれは重さからいって男のもの。ゆっくりとした調子はどことなく辺りを気にする風。

「……なんだろう」

 それは名前にとって覚えのあるもの。であったから、名前は先んじて扉を開けた。

「あっ、名前!」

 彼の方もそうするつもりだったのだろう。中途半端に上げられた手はその名残。ドアの向こうにいたのは新入りの青年ーーペッシだった。
 まだ幼さの残る顔。驚きに思わずと飛び出た声に、名前は「しぃ」と人差し指を立てる。すると彼の方も言わんとすることを察したようで、慌てて口元を押さえた。
 ーー静かに。
 周囲の者に気取られてはいけない。名前たちがマフィアだとーーそれも暗殺チームだなんてことはーー知られてはならないのだから。

「どうしたの、」

 本当ならプロシュートと一緒のはず。なのにどうして彼だけが借りたばかりのこの部屋に戻ってきたのか。
 まさか何かあったのか、と眉間に皺を寄せたところ。

「いや!兄貴が名前を呼んでこいって言うもんだから……」

 慌てて言葉を連ねるペッシ。曰く、名前のスタンドで詳しい情報を引き出してほしいとのこと。焦りを帯びた表情は名前の顔の険しさ故か。ともかくしどろもどろの調子でペッシはプロシュートからの言伝てを語った。

「なんか結構ガード固いみたいでさ……」

「……そう」

 でもだからってこうまで急ぐ必要があるだろうか。確かに仕事は早いに越したことはないが……。
 気にはかかったが、それ以上を問うことはしなかった。ペッシに聞いたところで答えを得られるとは思えない。きっと困らせるだけだろう。それは本意ではなかったし、『彼』が急いでいると言うのなら名前はそれに従うだけだ。

「わかった」

 そう頷くと、ペッシはあからさまに安堵してみせた。
 その反応に引っ掛からないでもなかったが、彼に苦手意識を持たされているのには気づいている。それは単に名前が嫉妬してるからーーただその一点であったのだけれど、だからこそ口にすることは憚れた。……イルーゾォには見透かされてしまっていたが。
 ともかく名前は深入りするのを避けた。あまり関わり合いにならない方がいい。それがお互いのためだ。大人げないと自覚していても今さら優しくなどできなかった。
 ーーもちろん、良心が咎めないでもないのだけれど。

「……わざわざ呼びに来なくてもよかったのに」

 気まずさを振り払うため名前は口を開く。案内のために先を行くペッシへと、呟く声はともすると行き交う車の音にかき消されそうなほど。けれど肩越しに視線は交わる。呟きを拾い上げた様子。だから名前もその目を見つめ返す。

「パソコンにメッセージ送ってくれれば私だけでも合流できたと思うんだけど、」

 言いながら、自分の言葉に納得する。そうだ、引っ掛かりのひとつはその点だった。ーー何もわざわざペッシを迎えに寄越さなくても。それが怪訝に思った理由のひとつだ。
 けれど名前の言葉にペッシは眉尻を下げる。困ったような顔。狼狽える眼差し。「ええっと……」口ごもり、窺い見る目。名前の反応を気にする素振りに、小さく首を傾げる。

「……どうしたの?」

「いやぁ……」

 なかなか口を割らない。随分と頑固だ。いや、優柔不断なのか。雑踏の中、足早に。けれど名前の視線は固定されたまま。ーー先を促すために。
 じぃっと見つめ続けると、やがて溜め息がひとつ。諦めに満ちたそれは降参の証だった。

「兄貴が……」

「うん、」

「……名前ひとりじゃ危ないだろうって」

 ぱちり。瞬きひとつ。それは驚きと戸惑い、困惑から。
 「危ないって……」その思いは声にも伝播。一層深まる疑問に名前までもが言葉を選ぶ。

「標的に感づかれた……わけじゃないんでしょう?」

「うん、でも……その、名前の力は戦闘向きじゃないからって」

 これはあくまでプロシュートの意見だ。「兄貴が言ったことだから」とペッシは念押しする。……ものだから、名前としても反論しづらい。
 気遣いはわかる。確かに、スタンド同士の戦いになったら名前では太刀打ちできない。だがそれほどまでにスタンド使いが多いかといえば……答えは否。パッショーネには能力者が集まっているが、それは故意によるもの。いくら権力ある議員とはいえ、公となっていないその能力を傘下に有している可能性は低かった。

「でも、それを言うならあの人だって、……そんなに殺傷能力は高くないのに」

 だから、と。名前が選んだのはそんな言葉。ーー私の護衛にペッシを寄越すくらいなら。それよりも自分の身を第一に考えてほしいところ。だって名前にとっての唯一は彼しかいないのだから!

「で、でも兄貴はそうしろって……」

「……あなた、あの人に言われたらなんでもするの?崖から飛び降りろって言われても?」

「そ、それは……、……兄貴ならなんか作戦があるんじゃないかな。兄貴が言うんならきっとそれが正しいんだよ」

 こんなのは八つ当たりのようなもの。言ったって栓なきこと。わかっているけれど、ペッシの答えに名前は顔を顰めた。

「その考えは正しくない、……私たち、ギャングの世界では」

 ギャングスターの間に親愛から生じる友情などはない。好ましいから信頼を寄せる。それは死に近づくのと同義だった。
 ギャングたちにあるのは利益に基づく友情。相手が裏切らない限りはこちらも銃口を向けない。ただそれだけ。ペッシの純粋な信頼はーーこの世界では危険だった。

「私たちは考えなくちゃいけない。自分のこと、その選択には責任を持たなくちゃ。だから誰も信じてはだめ」

 名前は少年のような彼を見上げた。自分よりずっとーーまだ人を殺すということを知らない青年を。もしかすると他の道があったかもしれない彼を。自分とは余りに違う彼を見上げ、じっと見つめた。
 その瞳に迷いがあるか。引き返したいと願うか。それを探るために。

「じゃあ名前は?名前はどうするの?」

 けれどペッシが返したのは問い。名前だったらどうするのか。もしも、プロシュートに『そう』言われたら。

「……飛び降りるわ、迷いなく」

「え?そ、それじゃあ……」

 言い切ると、ペッシは戸惑いに言葉を詰まらせる。案の定、思った通りの反応に、名前は「勘違いしないで」と首を振った。

「それは彼を信じているからとかじゃない。ただ私がそうしたいと思ったから。……その選択が彼の望みなら、私にとってもそれが最良だから」

 例え彼が名前を裏切ったとして。利用するために謀ったとして。飛び降りろと命じたとして。ーーその先に、死が待つとしても。
 それでも構いやしなかった。死んだっていい。裏切られてもいい。それで、彼が救われるのなら。
 それがこの世界で名前が選んだ答え。友情だとか愛情だとかではない、そう、人によったら安易な逃避にも映るだろう。だがこれが名前の選択だった。だからその結果自身がどうなろうと誰を恨むこともない。
 ーーそう、言うと。

「……それはそれで屁理屈じゃあ、」

「…………、」

「アッ!い、いや!悪いって言ってるわけじゃあ……!」

 呆れか、それとも。ともかくそれに近しい感情の乗った視線。呟きに、名前はじとりと眼差しを険しくする。ーー何か、文句でも?言外に迫ると、途端に慌てふためく彼。

「そ、それより急ごう……ッ」

 逃げたな、と名前は思ったけれど、それ以上問い詰めることはしなかった。足早に歩を進めるペッシ。汗の滲む背は感情を隠しきれていない。
 その揶揄いがいのある様子に、内心名前は愉快になる。なんというか、弟でもできた気分だ。
 ーーこれで『彼』のことがなかったらもっと上手くやっていけたのだろうか。
 嫌いになりきれない時点でその予感は正しいのだろう。だが現実はままならぬもの。ペッシには悪いが、少なくともしばらくは付き合ってもらうしかなかった。