君子は食に飽くを求むるなし


 空腹感を覚え、名前はディスプレイから顔を上げる。時計を見やれば時刻は午後の二時を過ぎたところ。
 ーー通りでお腹も空くわけだ。
 昼食を抜いてしまったことに今更ながら気づく。とはいえこんなことは日常茶飯事。名前は息を吐き、思い切り伸びをする。長時間パソコンとにらめっこしていたせいで凝り固まった体。首を回すと嫌な音がして、名前は顔を顰めた。
 アジトの中はしんと静まり返っていた。どうやら皆出払っているらしい。仕事か、はたまた余暇を楽しんでいるのか。名前が把握しているのはプロシュートの予定だけであったから、他のメンバーが何をしているのかは預かり知らぬところ。
 ーー何にせよ静かなのはいいことだ。ギアッチョの怒声もメローネの奇っ怪な発言も、名前からすれば頭が痛いだけ。心地のいい静けさに名前は表情を緩めーーしかし『彼』のことを思い出して、また眉間に皺を寄せた。

「……考えないようにしよう」

 しかし冷蔵庫の中は寒々とした様相であった。アジトとはいっても殆どのメンバーが他にも住み処を用意している。この狭っ苦しいアパートメントの一室を好んでいるのは、面倒臭がりの名前と自分の世界に籠りがちなイルーゾォ、それからリーダーのリゾットくらいなもの。
 そして後者二人が自分から進んで食材の用意などしないことはその性格からして火を見るより明らか。となると冷蔵庫のこの有り様も納得できる。だが、名前としても今からわざわざ買い物に出るのは億劫だった。特に、こんな気分の日には。

「……まぁ、お腹が満たされればそれでいいし」

 独りごち。名前は残っていたパンを半分に切り、その間にこれまた余り物のモッツァレラチーズと生ハムを挟んだ。どちらも誰かがつまみに買ったものだろう。が、気にしないことにした。

「……よし、」

 それを二切れ、皿に乗せ、名前は腰に手をやる。あとはそう、飲み物さえあれば十分。コーヒー粉の袋を手に取り、モカマシーンに向かう。
 ーーその時、出来立てのパニーノから目を離したのがいけなかった。

「……あっ!」

 一片の驚きと、残りはーー非難の声。気配を感じ、振り返った名前。見開かれた目、その視線の先には見慣れた黒髪。どことなく影のある面立ち。陰気ささえ感じさせる男は、名前を認めてにやりと笑う。

「ま、食べられないほどではないな」

 片手に食べかけのパニーノを持ったまま。男ーーイルーゾォは皮肉っぽく言う。それが料理と呼べるほどの代物でないと、なおかつ名前の調理の腕が壊滅的だった過去を知っていてーー知っているからこそ、こんな嫌味を言ってくるのだ。まったく、なんて性格の悪いこと!

「か、勝手に食べておいて……!」

 わなわなと震える拳。握り締められたそれは、しかし行き場を失い、名前は唇を噛む。イルーゾォのスタンド。それは名前には太刀打ちできぬ代物であったからーー殴りかかったところで痛むのは名前ばかり。
 だからこそ悔しさに歯噛みし、名前はイルーゾォを睨み据えた。
 気配がなかった。そう、名前は彼が鏡から出てくるのさえ気づかなかったのだ。それが余計に悔しさを加速させる。余裕綽々といった顔で笑う男を目の前にしているからこそ、だ。

「だがここに置いてあった。自分のものだって言うんならちゃんと名前を書いとかねぇとなァ?」

「今作ったばかりだもの!」

「毒味だよ、毒味」

「ああ言えばこう言う……」

 地団駄でも踏みたい気分。しかしそうしたところで与えられるのは腹立たしい笑みだけであろう。ここに名前の味方はいない。勝ち目など一片たりとも残っていなかった。

「……君子は食に飽くを求むるなし」

「なんだって?」

「贅沢言わないでってこと!」

 だから最後にひとつ。それだけを言い放ち、名前はふいと顔を背けた。それでお仕舞い。パニーノを一切れ奪われたのは痛いが、これ以上言葉で戦うのも無意味なこと。名前は諦め、平和な自室へと引き籠ろうとした。
 ……のだけれど。

「なんだ名前、お前えらく機嫌が悪いな」

 拍子抜けした。そんな顔をしてから、「あぁ、」とイルーゾォは手を叩く。あぁ、そうか、なるほどなるほど……。得たりとばかりに持ち上げられた口角。その意味深な様に、名前は思わず後ずさる。

「な、なに?」

「いや?ただ愉快だと思ってな」

 両手を広げ、歩み寄る。イルーゾォが一歩、踏み出すごとに後退していく足。しかし永遠などどこにもなく、すぐに名前の背中は壁にぶつかる。
 追い詰められた獲物。そんな気分で名前はキッと眦を上げる。だがイルーゾォの笑みは深まるばかり。

「プロシュートを盗られたのがそんなに悔しいのか?ええ?」

「なっ……!」

 それが思惑通りであると、彼の思う壺であると、名前にはわかっていた。そのために彼はこんな物言いをしているのだ。そうわかっている。わかっているけれど、それとこれとは話が別。頬に羞恥の熱が込み上げるのを抑えてはおけなかった。
 そう、彼の指摘した通り。名前の機嫌は低空飛行。それは新入りがこの暗殺チームに入り、プロシュートが指導役となって以来のことであった。
 であるから名前には反論の語はない。真っ赤になったまま、はくはくと口を動かすことしかできない。

「なぁ、名前……」

 そんな名前に、イルーゾォはふと優しい眼差しを向ける。甘ったるいほどの優しさを。瞳に宿し、名前を見詰める。
 とん、と壁に寄りかかる手。名前の頬を掠めるほどの距離。伸びる腕はイルーゾォのもの。囲むように置かれた手は緩やかな拘束。名前はただ見上げることしかできない。

「『許可』してやろうか?鏡の中は平和なもんだぜ……?」

「…………、」

 囁きが頬を撫でる。イルーゾォの艶やかな黒髪が今ばかりは紗幕のよう。透かして見える陽光は白く穏やか。それは彼の言葉を肯定しているかのように思えた。
 ーーけれど。

「……そんな言葉に騙されないから」

 名前はイルーゾォの胸元を押した。するとそれだけで彼の厚い体は呆気なく離れていく。拘束されているみたいだと感じられたのが勘違いだったと思えるほど、彼はあっさりと名前に応えた。
 いつもの冷たさを取り戻した目。磨かれた石か、それとも鏡か。そんな瞳を見上げ、名前はぴしりと人差し指を突きつけた。

「どうせ引きずり込んだ私で揶揄い遊ぶつもりでしょ、その手には乗らないから」

 ーー玩具にされて堪るものか。
 そう、眼差し鋭く言うと。

「……なんだ、つまらない」

 イルーゾォはひょいと肩を竦めて踵を返した。
 向かう先は鏡面。いつもの帰宅場所は確かに彼にとっては楽園であろう。だが名前にとっては違う。名前にとって最も安らげるのはいつだってたった一人の隣。それはかつても今も変わらない。どれほど嫉妬に身を焦がそうとも、だ。
 だから鏡の中の世界なんかに用はない。ない、が……しかし。

「……喧嘩なら『こっち』で付き合ってあげなくもないけど」

 口論したお陰か。胸中でとぐろを巻いていた靄が少しばかり晴れたような気がする。鬱屈とするばかりであったが、先程までよりかは外に出るのも面倒ではないと思えた。
 だから、まぁ……嫌なことばかりではないのだ。こうして、舌戦を交わすのも。ーーイルーゾォのことも、嫌いなわけがなかった。

「……付き合ってやってるのはオレの方だろ」

「それは聞き捨てならない。……って、ちょっと!待って、言い逃げ禁止!!」

 そろりと洩らした呟きは一瞬の暇を置いてから拾い上げられた。相変わらずの憎まれ口を添えて、イルーゾォは片方の口角だけを器用に持ち上げた。その悪い顔を残し、鏡の中に消えていく。名前の追う声など気にも留めず。
 嵐のように過ぎ去った背に、名前は膨れっ面を向けるしかなかった。