(元)公主と標なき未来


 遊牧民の朝は早い。
 家畜である馬や牛、羊の世話。男たちは子供であっても弓を操り、鳥や鼠、やや長じると狐や兎を射て食料とする。
 乳製品の加工も盛んで、馬乳から造る酒、馬*は異国でも有名だ。加工といえば家畜の毛を利用したフェルトは色々な場面で重宝している。それこそ衣服から住居の装飾、鞍敷きにまで。
 おまけに女はどんな時だって身綺麗にしていることが求められるから、時間なんていくらあっても足りないくらいだ。グリムーー化粧のためには植物の葉を揉み潰すことから始めなければならないし、爪を鳳仙花の赤い汁で染めるヘナという行為も公主として傅かれていればよかった過去を思えばなんとも面倒な作業である。

「おや、だいぶ手慣れてきたじゃないか」

「そ、そうですか……!?」

 ……だが、こんな生活も嫌いではなかった。
 天幕の中、ヤヒリクにちまちまと刺繍を施していく。そんな名前に声をかけてきたのは年嵩の女性。流浪の身である名前を拾い、快く迎え入れてくれた一族のひとりだった。
 彼女は年輪の刻まれた顔を柔らかく緩め、名前を見る。年相応に目を輝かせる名前を、まるで本当の子供を見るような眼差しで。

「あぁ、最初の時のぎこちなさが嘘みたいだ」

「そ、それは……」

 その言葉に、名前は頬を赤らめる。
 「もう忘れてください……」当初は針で指を刺す方が布を潜らせるよりずっと多かったのを蒸し返され、名前は羞恥に沈む。声は頼りなく、顔は湯気が立つほど。
 だが言い訳させてもらうなら、名前が特別不器用なのではない。ただここで使われている針が殷のものよりも滑りがよく、手に馴染まなかっただけである。そう、それだけ。だからもう過去のことは忘れてくれていいはずだ。
 けれど天幕の女たちの表情は変わらない。何せ娯楽に飢えている。だから皆針の手を止め、茹だる名前を微笑ましいとばかりに眺めるだけ。年配のご婦人方といったら、「よく頑張った!」と名前の頭を撫でくり回す始末。この集団の中では一番の後輩である名前はされるがまま。道士となったのに威厳も何もあったものではない。
 ーーそう、名前は道士になった。誠に不安だが、申公豹の弟子として。
 道士となった名前だが、しかし皆のように仙人界へ行くつもりはなかった。というより師匠である申公豹が相も変わらず放浪の身であるからだ。だから名前も遊牧民の輪に入れてもらいながら人間界でひっそりと生きていくことにした。
 ーー己の居場所を見つけるために。

「名前〜!お客さんだよ!!」

 温かな空間。ここ数年は遠ざかっていた家族の温もりに触れ、密かに頬を緩める。
 そんな時、出入り口にぶら下げられた色鮮やかな布が揺れ、外からひょいと覗き込む顔がひとつ。

「お客さん?」

「そう!霊獣さまっ!!」

 きらきらと輝く目は無邪気の証。狩猟に向かうところだったのか、幼い体に弓と矢を背負わせた少年が名前を外へと手招く。早く、早く、と。

「あの、すみません、すぐ戻りますから……っ!」

「いやいやいいよ、ゆっくり話してきな」

「あ、ありがとうございます!!」

 優しく見送られ、名前は少年に手を引かれるがまま天幕を飛び出す。
 途端、眼前に広がるのは翠の海。どこまでも続く平原と空の色に煙る山脈。そして頬を撫でる爽やかな風はいつだって名前に喜びを齎してくれた。馬で駆ける時。家族と食事を共にする時。あと、それからーー

「名前ちゃん!!お久しぶりっスねぇ〜!」

「スープーどの!ええ、ええ、お久しゅうございます……!」

 名前の知る霊獣といえば数少ない。申公豹を主人と仰ぐ黒点虎、そしてこの四不象である。だから『霊獣』と言われた時から名前には訪問者の予想はついていた。
 黒点虎が名前を訪ねるはずもなし、となれば答えはひとつしかない。

「お元気でしたか?」

「もちろんっス!名前ちゃんはどうっスか?」

「ええ、私も変わりなく……」

 四不象は最後に別れた時と変わらなかった。丸みを帯びた輪郭も円らな瞳も、ひとつとして変わりない。
 だがあの時ーー太公望の姿が消えたあの日は酷く塞ぎ込んでいた。それが気がかりであったけれど、どうやら彼も立ち直ったらしい。明るい顔、ハキハキとした語調。その姿に名前は内心胸を撫で下ろす。
 ーーもう、悲しいことはうんざりだ。

「それで?今日はどういったご用件かしら」

 名前は微笑んでーーそれも無意識のうちに!ーー四不象へと訊ねる。
 仙人界は人間界と関わりを持たない。それが基本原則であり、干渉は緊急時に限る。そのようになったのだと聞いていたから、名前は再会を嬉しく思いつつも訝しむ。
 ーーまさか、何かあったのでは?
 そう、密かに覚悟を決めたのだけれど。

「あ!そうっス!名前ちゃんにお手紙っスよ〜!」

「手紙、ですか……?」

 ごそり、と。どこから取り出したのか、四不象が名前へと渡したのは一通の文。きらきらとした目をーー何故だかーー向けられながら、名前はゆっくりと封を切る。

「いったいどなたから、……っ!」

 そこに記されていたのは思いもがけない人の名前。仙人界で療養中だという『彼』のことは名前にとっても気がかりのひとつではあったのだけれど、まさか。まさか『彼』の方から近況を知らせてくれるとは思いもしなかった。

「……意外とマメな方なんですね」

「そうっスねぇ〜……。でも名前ちゃんのことはずっと気にしてたみたいっスから……」

「そう……」

 さもありなん、と四不象は言うけれど、名前を襲った驚きは覚めやらない。だって名前と『彼』を繋ぐものはもうない。『彼』の父も、恨むべきものも。国すらも過去のものとなったのだから、未だ名前を気にかけるのは『彼』の生来の気質ゆえ。優しいにもほどがある、と名前はひとり笑う。
 悪い気はしなかった。正直なところ嬉しいとすら思う。何もかもをなくしたと思っていたけれど、ーーこの世界にだって永遠はあるのかもしれない。そう、希望を抱くことができた。

「……ずいぶんと楽しそうですね」

「……っ、申公豹、」

 また返事を受け取りに来ると言い残し、飛び立っていった四不象。その影が見えなくなるまで見送っていると、不意に背後から声をかけられる。
 振り返った先。立っていたのは草原に相応しくない出で立ちの男。「驚かさないで」相も変わらず道化の姿をした夫に、名前は顔を顰める。
 が、そんな顔を向けられても申公豹はどこ吹く風。やれやれと溜め息を吐き、呆れた風に両手を挙げた。

「まったく、夫の留守中に堂々と浮気するなんて……困った妻ですね」

 嘆息。苦言。それらを紡ぎ出す男の目。その黒々とした眼は感情を読み取らせない。気安い気持ちで踏み入れたら吸い込まれそうなほどの闇。一度落ちたら二度と這い上がれない沼の底。
 けれど名前に恐れはない。それを不気味と思うことも、不安に駆られることも。深淵に足踏みすることなく名前は歩み寄り、「あら、」と夫の顔を覗き込んだ。

「ごく当たり前の夫なら妻に何も言わずどこぞへ出掛けるなんて有り得ないと思うのですが」

「言いますねぇ」

 くつくつと肩を震わす男。申公豹は愉快だと顔を歪めて笑う。
 「だからあなたは面白い」そんなことを言って、「わっ!」ーー名前の頭をぐしゃぐしゃに掻き回した。

「ちょ、ちょっと!何するの!?せっかく編んだのに……っ」

 遊牧民の間では女性が髪を結うのは当たり前。人々は長い黒髪を使って何本ものウールム・チャシーー三つ編みにする。だから髪を切り落としてからそう時間の経っていない名前も、また。苦労しながら毎朝髪を結っているのだった。
 だというのに、この不埒な夫はその苦労を泡としたのだ!

「ああ、そういえばあなた、髪を纏めるのが不得手でしたっけ」

「……っ、ええっ!その通りですとも!!それをあなたという人は……!」

 なんと勝手な夫だろうか!
 これほどまでの狼藉を働く男を選んでしまったのは一生の不覚。『彼』が心配して手紙を寄越すのも当然というわけだ。
 そう怒りに震える名前に、しかし申公豹は飄々と答える。

「これは罰ですよ」

「は、」

「夫のいる身で他の男からの文に心を躍らせているからいけないんです。悪いのは名前、あなたの方ですよ」

 ーーそんなに『彼』のことが気に入りましたか?

 踏み込む足。寄せられる顔。落ちる、声。
 風の音も草原のさざめきもどこか遠い。在るのは申公豹の凪いだ瞳。冷たさすら感じさせる黒目は沈黙を守ったまま。痛いほど静かに名前を射抜く。その心中を探ろうとするように。何もかもを暴きたてる、そう宣言して、双眸は名前を見つめた。
 けれど名前が目を逸らすことはなかった。野性動物と相対した時と同じように、ほんの僅かすら揺らぐことなく見つめ返しーーそしてふ、と笑った。

「……なんです?」

「あら、言ってもいいんですか?」

「質問しているのはこっちですよ」

 寄せられた眉は不満の証。そしてそれが道化らしい大仰な演技ではないのだと名前にはわかった。この不機嫌さは真実彼の心から生まれたもの。
 ーーそれさえわかってしまえば、もう勝ったも同然だ。

「まさか道化のあなたが一丁前にも嫉妬するなんてね」

 緩む頬。それは名前にすら手の負えぬもの。自然と綻ぶ口許を押さえ、名前は悪戯っぽく小首を傾げる。視線は申公豹へ、目を瞬かせるしかない彼に向けたまま。

「…………、冗談、私にそんな感情があるとでも?」

「そうね、びっくり」

 申公豹も皮肉げな笑みを形作ろうとする。が、それはどことなくぎこちない。抑えられた声にすら滲む動揺に、名前は殊更優しく笑いかけた。

「安心してください。これでもわたし、結構一途なんですから」

 胸を叩いてみせる。と、申公豹は「はぁ、」と深い息を吐いた。「降参です」疲れたように額を押さえ、白旗を上げる。

「……知ってますよ、嫌というくらいにね」

 そう言って笑う彼は、驚くほど毒気がない。まったく仕方がない、とでも言いたげに下げられた眉。諦め混じりに肩を竦める彼に名前の笑みは深まるばかり。

「わたしとしてはまだまだ伝え足りないように思えるんですが、ね!」

 だからこそその衝動のままに名前はーー夫の胸へと飛び込んだ。肉の薄い体。体温の低い体。とても人間らしくないものだけれど、この世で唯一名前が信じられる約束。

「ちゃんと守ってくださいよ、私の最期を看取るのはあなただって決まってるんですから」

「……はいはい、しょうがないから守ってやりますよ。あなた、執念深そうですからね」

 人間らしくない男。だからこそ名前は彼を信じることができた。人間ではないからこそ、永遠はそこにあるのだと思えるようになった。だからまぁ、惚れた腫れたの甘酸っぱい関係ではない。
 けれど名前にとってはそれがちょうどよかった。愛でも恋でもないからこその安らぎ。その腕の中にて、名前はようやく安息を得た。居場所など、とうの昔から見つけていたのだ。
 疲れた様子の夫に、名前は声をたてて笑った。







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ここまでお付き合いくださりありがとうございました!
永遠のケンカップルendです。
この後も二人はふらふらと遊牧民の生活と交わりながら生きていくのだと思います。お陰で遠い未来では伝承として語り継がれる存在になりそう。