(元)公主、決着をつける
ーー光が弾ける。
「これ、は……っ!?」
女カとの戦いは熾烈を極めていた。太極図の真の力。宝貝を通し、皆の力を吸い上げーー戦いへと変換するもの。
それを自身に取り込んだ伏羲は女カに肉薄していた。だがしかし、それでも女カには届かない。伏羲の攻撃を躱し、そして女カは強大な閃光を放つ。
伏羲の存在そのものを消滅させるために。
けれどその姿が消える、刹那。
ーー一瞬視界が奪われた。
「いったい、何が……」
状況がわからない。
困惑を声に滲ませた名前は、辺りを見回してーー固まった。
「くっそ〜〜太公望のやつ〜どこまで力を吸うつもりだよ〜〜〜」
そう、弱音を吐く張奎に。
『なんだ張奎……その程度で音を上げるのか?』
『その人』の姿は遠い記憶。過去のものであったけれど、その顔に浮かぶのは見たこともないほどにーー或いは失われたと思っていたーー穏やかな表情。厳しい言葉とは裏腹に微笑すら浮かべて、『その人』は張奎を見下ろしていた。
ーー聞太師、
声なき声に、彼は応える。その目がゆっくりと動き、名前を捉える。彼の知る『公主』とはすっかり変わってしまった名前を見てーー聞仲は目を細めた。
「ぶぶぶ聞仲さま……っ!?」
『騒ぐな張奎……お前にはまだ成すべきことがあるだろう?』
「は、はいっ!!!」
先程吐いていた弱音はどこへやら。張奎は慌てふためき、けれど聞仲の諭すような物言いにぴしっと背を伸ばす。
まるで昔に戻ったかのよう。聞仲がいて、その配下に張奎がいる。過去の朝歌を再現して、張奎は駆け出した。
だがその顔にはもう疲れはない。喜びを隠しきれないと緩みきった顔でーーしかしすぐにそんな場合ではないと表情を引き締めーー彼はまた女カを見上げた。
そんな張奎を見送り、聞仲はまた名前を見つめ返す。
ーー時間が、止まったような気がした。
懐かしさすら覚えるほどに遠くなった面影。そこには温度も匂いも感触もない。ないけれど、でも名前の心に沸き上がるのはーー歓喜。
折り合いをつけた。その結末に納得したつもりだった。もう終わった話。仕方のないこと。それは子供のように無知で無謀な夢だったのだ、と。
なのに、心は巻き戻される。あの日、永久の別れと知った日に。どうしようもないほどの思慕の念が名前の中に甦った。
そんな名前に、聞仲は頭を下げる。
『すまない、公主。私は約束したのに』
実直なーー過ぎるほどに真っ直ぐなのも変わりない。低く、落ち着いた声。緩やかな小川のようで、強靭な大地のよう。
それはいつだって名前に勇気を与えてくれた。宮中がどれほど闇に呑まれても、それでも自死を選ばずにいれたのは彼がいたからだ。
聞太師。彼は朝歌の誇りであり、名前の支えでもあった。
「……いいえ、もうよいのです」
名前は緩く首を振った。詫びの言葉は既に一度受け取っている。名前に彼を恨む気持ちなど一片もありはしない。その思いは朝歌が滅び、親族のすべてを喪った今も変わりなかった。
だが聞仲は未だに気に病んでいるらしかった。『公主……』彼は何事かを言いかけて口を噤む。
しかし名前には続く言葉がなんとなくわかった。彼はたぶん、父のことを気にしているのだ。殷の紂王。名前の父は彼の後に亡くなった。故に名前は公主ですらなくなり、多くのものを喪ったのだから。
そう、眉根を寄せる聞仲に。
「それでもまだあなたが気に病むと言うなら……今からわたしの言うことを聞かなかったことにしてください」
名前は微笑すら浮かべて彼を見つめた。彼がそうしたように。彼の生きざまのように。
真っ直ぐ、ひたむきに。聞仲を見つめ、胸に手を当てーー口を開く。
「わたし、あなたに恋してました。公主としてではなく、ただのひとりの女として。……あなたを、愛しています」
それは心残り。言う必要のないことだと自分に言い聞かせて過去にした想い。
しかしそれを口にしても名前の心は凪いだまま。嵐のような激情はなく、穏やかな様相。静かなる黄昏であり、目覚めゆく黎明であった。
そんな具合であったから、目を見開いた彼がそれでも、と口を開こうとするのを笑って押し留めることができた。静かに、と人差し指を立て、「ダメですよ」と言い含めた。
「今のはあなたに届いていないんだから返事なんかしちゃいけません」
『……わかった』
名前の最後の我儘。それを聞仲は静かに聞き入れる。何かを懐かしむように目を細め、それから彼は『……では、私からもひとつ、』と囁きを落とす。
ーー名前、と。
彼には長らく呼ばれることのなかった名前。公主とだけ呼ぶのが彼なりの線引きなのだと名前は理解していた。だから名前も彼のことを太師と呼んだし、『公主』であることを誇りに思うようになっていった。
ーーそれが、いま。
『私は貴女に救われていた。私にとって、貴女は唯一無二だった』
双眸は麗らかな空の色。海であり空であり、この大地そのもの。同時に口許へ灯る微笑は松明であり野火であり、黄昏に瞬く星であった。
その眼差しには親愛の情があった。幼い時から変わらない愛情があった。けれどすべてが同じというわけではない。そこに一片、ほんの一欠片ーー燃える炎、昇りゆく朝日の輝きがあるように思えたのはーー名前の願望に過ぎないのだろうか。
……いいや、そんなことはない。思い上がりなどではないと、視線を交わしただけでわかった。『そう』なのだと、彼の目は何よりも如実に肯定していた。
「聞仲、さま……」
『泣くな、名前。貴女に泣かれると……どうしていいかわからなくなる』
戦慄く声に。伝う涙に。彼は困ったように笑った。殷の太師としてではなく、ただひとりの人間として。心に惑う人間らしく、彼は名前を見つめていた。
だから名前は微笑んだ。心には爽やかな風が流れ、柔らかな日差しが差し込んでいた。刈り取られた花は、けれど芳しい匂いだけを胸に残してくれた。
それが最も幸いなことなのだと名前は諒解した。そしてたぶん、彼の方も。