ポラリス


 ヴェネツィア本島からほんの数分の距離に浮かぶ小島、サン・ジョルジョ・マッジョーレ。同名の教会は、サン・マルコ広場の対岸に立っていた。

「大丈夫かなァ……トリッシュ、なんだか顔色が悪かったけど」

 命令通り二人きり。ブチャラティに先導され、教会へと向かう小さな背。トリッシュの影をいつまでも見送りながら、ナランチャは気遣わしげに呟く。

「そりゃあ……緊張するでしょう。初めて会うんだもの」

「でもボスはトリッシュのこと心配してるんだろ?こーして護衛させてるんだし……ちゃんとした家族なんだから気にすることないのに」

「……そうね」

 心底不思議だ。そういった様子で首を捻るナランチャはボスに愛情があることを信じて疑っていなかった。案じること、気にかけること。無関心でないことこそが家族『らしさ』なのだと彼は信じているらしかった。
 しかしそれに名前は曖昧に笑むことしかできない。
 夜が明けたばかりの煉瓦の街は静寂に包まれている。ヴァポレットで賑わうはずの船着き場も今は一艘のボートしか停泊していない。翠の海は凪。しかしそれは決して穏やかなものではなくーー張りつめた糸のよう。
 ーーどうしてだろう?任務はもうすぐ終わるというのに。
 ーーいや、理由などわかっているはずだ。本当は、ずっと前から。
 名前にはわかっていた。わかっているから、ナランチャに何も言えなかった。ーートリッシュに、声をかけることすらも。
 だって名前は知っている。ボスが恐ろしいほど非情で、冷酷なのを。『そうした者たち』を配下とし、敵と見なした存在を容赦なく葬ってしまう人なのだと。身をもって知っているからーートリッシュにかける言葉が見当たらなかった。怖がらなくていい、安心してくれて構わない。そう言うのは容易いはずなのに、たった一言すらも言えなかった。
 けれどそれでもボスにだって人の心はあるはずだ。普通の人間らしく家族を想う心。彼だってきっとトリッシュを大切に思っている。ーーそう、信じたい。

「きっと大丈夫よね……」

「うん……」

 ボスこそが長年の友を殺した男なのだとしても、トリッシュの幸福のためには願わずにいられなかった。

 ーーしかし、その願いは脆くも崩れ去ることとなる。

 始まりは違和感だった。

「そういえば礼言ったっけ?ジョルノ……言ってないよな、水取ってもらって……」

「え!」

 チョコを取った取らないの喧嘩をするミスタとナランチャの傍ら。ペットボトルを手に、フーゴは首を傾げる。それにジョルノは驚きの短い声を上げ、訝しげに自分の右手を眺めた。
 その様子を見つめながら、名前はふと違和感を覚える。
 名前はフーゴとジョルノの対角線上にいた。だから見逃すはずがないのだ。ジョルノがフーゴに水を渡したなら、絶対に名前の前を横切ることになる。
 それに、思えばおかしいことはもうひとつ。
 ナランチャの持っていたチョコレート。その箱には三個残りがあって、なおかつ持っていたのはミスタだった。それは間違いない。だって名前はずっと見ていた。「返してあげなさいよミスタ」そう言って、ナランチャを庇った。
 だからミスタにも名前にも気づかれずにナランチャが三個ものチョコを一気に頬張れるはずがない。
 そうだ、チョコレートは『いつの間にか』ナランチャの口の中にあった。ペットボトルも『気づかぬうちに』フーゴの手に渡っていた。
 『いつの間にか』『気づかぬうちに』ーーまるで、時間でも止められていたみたいに。

「あ、あぁ……」

「名前?」

「どうしたんだ?」

 声はひとりでに。喘ぐようにーー或いは悲鳴でもあげるみたいに。その寸前の声を洩らし、名前は教会を見上げた。
 心配する声は蚊帳の外。認識すらできない。名前の意識は遠い昔、十年前のエジプトへ。その時の感覚がつぶさに甦る。
 宵闇の支配する館。土埃とーー血の臭い。捕らわれ、衰弱していた名前は何もできなかった。目の前で吹っ飛ばされていく体。止めどなく溢れる鮮血。水道管が破裂したみたいな光景。ーー零れ落ちる、生命の輝き。

「知って……いるわ……この感じ……そう、これは……」

 彼の名を呼ぶ。宿敵の能力を見破った彼のこと。今でも忘れられぬ翠玉の煌めき。美しい宝石は名前にとっての北極星。道標の光は名前の心を奮い立たせてくれる。過去も、ーーそして、今も。

「何か……!!奇妙だ!!」

「ジョルノッ!」

 違和感は名前だけのものではなかった。ジョルノもまた感じ取り、険しい顔で立ち上がった。
 その手を掴み、名前は叫ぶ。

「これはスタンドよ!時を止める……ううん、違うわ、少しだけ『それ』とは違う……でも確かに今、私たちの時間は吹き飛ばされたッ!!」

「……ッ」

 何を知っているのか。ジョルノの目に疑問が浮かんだのは一瞬。彼は名前への問いを後回しにして、名前の手を握り返した。

「急ごう!ブチャラティが……危ないッ!!」

「ええ!」

「おいお前らッ!何やってんだッ!」

 アバッキオが名前たちを静止しようと手を伸ばしてくる。しかし時間はその先すらも消し飛ばす。

「え?」

 ナランチャのぽかんとした顔。その先にいるのは上陸したアバッキオの姿。二人を止めようとしたはずなのに、アバッキオまでもがいつの間にか陸へと上がっていた。

「こ、これは……やはり……ッ!」

 ーーこれが、ボスの能力。
 この教会にいるのはこのチームとトリッシュ、そしてボスだけ。そのはずだ。暗殺者チームがひとり残っているとはいえ、この短時間で追いつくとは思えない。何よりボスは用心深い。己の側に危険を置いておくはずがなかった。
 だからきっと、これがボスのスタンドなのだ。この、寒気がするほどの威圧感。街を凍りつかせるほどの力。持ち主はボス以外に考えられなかった。

「てっ、てめーらどこ行く気だ!」

「待て名前ッ!行ってはダメだッ!!命令を守るんだッ!!!」

 アバッキオとフーゴの声を無視して名前とジョルノは地を蹴った。今は一分一秒が惜しい。ーーブチャラティ。彼のことを思うと背中に鳥肌が立つ。
 だから二人は振り返らなかった。振り返ることなく、ただならぬ雰囲気を放つ教会へと足を踏み入れた。