郭公、或いは夜鳴鶯、若しくは田計里の歌


 本来なら静謐に包まれているであろう教会。その中を今は乾いた足音が響く。それにまた焦燥感を煽られながら、名前は祈った。
 ーーどうか、無事で。

「ボスはどこに……ッ!?」

「この下ですッ!地下納骨堂……恐らくそこを突っ切ろうとしていますッ!!」

 忙しなく辺りを見回す名前とは反対に、ジョルノは確信を持って名前の手を引いていた。もう反対の手に抱えるのはパソコン。教会の地図が表示された画面から顔を上げ、ジョルノは答える。
 なぜ彼がボスの居場所を知っているのか。気にならないわけではなかったが、そんな好奇心は後回し。今はただ彼をーージョルノを信じればいい。
 そしてそれは名前にとって難しいことではなかった。

「……急ぎましょう!」

「ええッ!」

 地下にある納骨堂。ティントレットの美術館を素通りして、名前たちは階段を目指す。最後の晩餐もキリストの降架も今は目に留まりすらしない。
 だがその間も時は無情にも進んでいく。

「……ッ!」

 鳴り響く甲高い音。着信を知らせる携帯にジョルノは応答する。

「しかし待て!ブチャラティッ!!何かただならぬ事がッ!起こっているんだァーーッ!!」

 叫ぶジョルノの手の中。携帯の向こうから嫌な音が響く。何か重たいものが崩れる音。その後に訪れる沈黙。恐ろしいほどの無。それからーー

「ブチャラティ?ブチャラティ……もしもし?ブチャラティ……き……聞こえますか?」

 そこから逃げてくれ。そう訴えるジョルノを無視して通話は途切れる。

「…………」

 名前はジョルノから受け取ったパソコンを抱き締めた。
 ーーこのままでは。
 脳裏を過る光景。記憶に、名前は唇を噛む。
 どうすればいいだろう?どうすれば後悔せずに済むのだろう?
 焦りは思考を掻き乱しーーけれど先を行くジョルノの背に、その目の覚めるような黄金色に、ふと甦るのはジョルノから貰った言葉。

「ーーねぇ、ジョルノ……あなたは言ってくれたわよね」

「え?」

「あなたは言ったわ。私の言葉でスタンドを成長させることができたって。『できる』って確信するのが大事なことだって」

 不意に口を開く名前にジョルノは目を瞬かせる。そんな彼にパソコンを返して、今度は名前の方からその手を取った。

「だから今度は私に『私のこと』を信じさせてほしい。私にもできるって……そうあなたが信じてくれたならーー私、なんだってできると思うの」

 萌木色の瞳。芽吹いたばかりの生命の色。希望の光を見つめ、名前はジョルノの手を握り締める。
 ジョルノは最初驚いた風だった。唐突な名前の台詞に面食らい、ーーけれどすぐにその手を握り返した。

「ーーええ、あなたならできます。絶対に……どんなことだって」

 その瞳に迷いはない。その声に揺らぎはない。その手に躊躇いはない。あるのは確かな信頼。ただそれだけだった。

「ーーありがとう」

 名前に何もかもを預けてくれるジョルノ。この緊急時に、彼は賭けてくれた。なんの根拠もない名前の言葉を。名前の力を。信じて、頼ってくれた。
 ーーならば、応えなくては。

「『飛ばす』わ!捕まってッ!!」

 念じる。瞬間、強い引力を感じる。思い切り引っ張られる感覚。その後で、景色は一変する。
 名前の能力は世界に働きかけるものではない。操る対象は個人。だから世界全体の時間を進めることなどはできない。そう思っていたから、例え名前が自分自身の時を加速させたとしても、体が老いていくだけだった。ーーそう、今までは。
 でもそれは名前の思い込みだ。人間が世界に干渉する。そんな烏滸がましいこと、神に許されるはずもない。
 そう信じていたけれど、今にして思えばおかしなこと。だって名前の幼馴染みは世界の時を止めることができる。ならば名前だってーー対象を広げても構いやしないだろう。
 そして念じた通りに名前たちは納骨堂へ。世界を置き去りに、そこに至るまでの時間だけを一気に進めたことで、二人は瞬間移動でもしたように一息で納骨堂まで辿り着くことができた。尤も、その分だけ名前の消耗も激しいものとなったが。

「ジョルノ……それに……名前……か……?」

「ブチャラティッ!!」

 それでもやはり、ブチャラティの負った傷に比べれば何てことはない。
 納骨堂へと続く螺旋階段。その終点に彼らはいた。ブチャラティと気絶したトリッシュ。そしてーー床に広がる真っ赤な海。鮮血を滴らせ、それでもなおブチャラティはトリッシュを庇うようにして抱き抱えていた。
 そんな彼の元に慌てて駆け寄る。噎せ返るほどの鉄の臭い。嫌な予感は当たっていた。だが辺りに殺気はない。ボスはどうしたのだろうか。
 ともかく、手当てをしなければ。その一心で名前はブチャラティに触れる。腹に穿たれた穴。普通なら致命傷だ。覚えのある傷に泣きたくなりながらも名前は必死で能力を発動させた。

「……くっ、」

「大丈夫ですか、名前……」

「ええ、平気よ……大丈夫……」

 連続での使用。それも負担のかかるスタンドの使い方に、名前は思わず呻く。ーー頭が酷く痛む。その痛みは叶うなら自分で叩き割ってしまいたいほど。朦朧とする視界に、しかし名前はぐっと腹に力を込める。
 「それよりも……」こんなところで倒れるわけにはいかない。「ボスはどこに……」頭を押さえ、名前は視線を走らす。大きな柱たちが作り出す影。お陰で視界は明瞭としない。ボスがどこに潜んでいるか。どこに隠れていてもおかしくはなかった。
 けれど。

「まさか『裏切り者』が三人もいるとはな……」

「……ッ!?」

 まさかそれが真後ろーーたった今名前たちが下りてきた螺旋階段の上から聞こえてくるとは予想だにしていなかった。

「その能力……わたしに少しばかり似ているな……。情報を聞いた時から思っていたが……なるほど、ここまでとは……」

 振り仰いだ先、底冷えするほどの闇の中に浮かぶ顔。スタンドの顔だけは不思議とよく見ることができた。ぎょろりとした目。屈強な体。恐らくボスもすぐ近く、スタンドの背後に立っているのだろう。

「しかし血縁はない……、娘を見たときのような感覚ではないからな……。だがそれにしても似ている……。遠縁か、それとも偶然か……」

 スタンドが名前を見下ろす。冷酷な目。感情のない眼差しが名前を射抜く。
 ーー逃げ場がない。
 じとりとした汗が背中を伝う。
 重傷のブチャラティと気絶したトリッシュを抱えたままでは戦うには余りに不利だ。では逃げるかといえばそれもまた難しい。唯一の出入り口を阻んでいるのはボスだ。向かうなら戦いは避けられない。だが既に名前は大きく消耗している。もう一度加速したとして、時間を吹き飛ばせるボスから逃げおおせるだろうか?

「……大丈夫だ。お前たちのくれたチャンス、無駄にはしない」

 そう思考を巡らす名前の膝の上。体を『巻き戻された』ブチャラティがゆっくりと起き上がる。その目はまだ諦めてなどいなかった。むしろ輝きに満ちた力強い目でボスを睨み据えていた。

「だが予定に変更はない。お前たち全員ッ!今ここで始末するッ!!」

「今だッ!『スティッキィー・フィンガーズ!!』」

 ボスとブチャラティ。二人の声が納骨堂に木霊した。
 ーーそして。
 ブチャラティの策により、名前たちはボスの手から逃れることができたのだった。