ズッケェロ戦後
甘美な快楽の地。そう評された青の島、カプリ。海から見ると猪にも見えるこの小島は、古代カプロスと呼ばれていた。そんな小島の岩壁は青白い石灰質でできているために周囲の海までもが美しい青に見えるのだという。
故に観光地として名高く、遠くからでも港に停泊する幾つもの影を認めることができた。その中には先行したジョルノとミスタのものもあって、待ち伏せているらしい敵もきっとマリーナ・グランデにいることだろう。
──二人は大丈夫かしら。
ジョルノたちが島に向かってから既に三十分は経過している。上手いこといけばもう決着は着いているかもしれない頃合いだ。しかしその連絡はない。だからヨットも島から付かず離れずの距離を漂っていた。
その間名前にできることはない。マリオ・ズッケェロ──先刻襲撃してきた敵スタンド使いだ──は、ナランチャとフーゴが担当している。たぶん情報を吐くことはないだろうが、『念のため』というわけだ。ブチャラティは船の後方で見張りをしていて、だから名前は船首の方で手持ちぶさたにカプリ島を眺めているしかなかった。
「溜め息ばっかり吐いてたってしょうがねぇだろ」
「アバッキオ、」
そんな名前に声をかけてきたのが彼だ。相変わらずの顰めっ面。憎まれ口ばかり叩く彼はこの時も『やれやれ、呆れた』といった風で、手摺に寄りかかった。
──アバッキオもズッケェロのところにいたはずだが、いったいどうしたのだろう?
彼のスタンドは戦闘向きではない。だが彼自身は腕っぷしが強く、人体のどこを痛めれば効果的かよく知っていた。だから名前と一緒になって広大な海だとか空だとかを眺めている必要はないはずだ。
しかし現実は間違いない。アバッキオは名前の隣にいて、──すぐに『それ』とはわからないよう細心の注意を払って──島の様子を窺っていた。
「……心配ならそう言えばいいのに」
「あぁ?」
つい。ぽろりと口から零れた言葉は唸るような声に拾い上げられた。独り言だと看過してくれればいいものを。アバッキオは物騒な顔で「バカ言うな」と噛みついてきた。
「誰が、なんだって?有り得ないな、まったく」
「あらそう、別に私はなんだっていいですけどね」
その俊敏すぎる反応こそが何よりの証じゃないかしら?そう思ったけれど、言ったら反撃にあうのは目に見えている。
頬をつねられるか額を小突かれるか。どちらにせよ名前は被虐趣味ではないので口を噤んでおく選択をした。ついでに訳知り顔で肩を竦めてしまったのは……まぁ、ご愛嬌ということで。
ともかく見逃したのかなんなのか。アバッキオがそれを咎めることはなく、「それより、」と話題を転じた。
「そう言うお前はやけに庇うじゃねぇか」
「そう?気のせいじゃない?」
「お前と一緒にするな」
「はいはい」
増えていく一方の眉間の皺。あんまり放っておくと跡になっちゃわないかしらと他人事ながら心配になる。せめて眠るときくらいは心安らかであるといいのだけれど。
でも彼が子供のような顔で眠っているのもまた想像がつかなくて、名前は内心で笑いを抑えた。
「……まぁ、そうね。私、結構気に入ってるわ、ええ、認めますとも」
『やけに庇うじゃねぇか』そう言った彼は名前が聞き流そうとするのを許しはしなかった。じっと見つめれ、となると答えないわけにはいかない。
なんだってそんなに気になるのか。疑問を感じないわけではなかったけれど、それを口に出す雰囲気ではなかった。アバッキオが名前に求めているのは答えであったし、それ以外を齎したならきっと罰を与えられていたろう。
だから名前は降参とばかりに両手を挙げ、嘆息する素振りを大仰にして見せた。
そうしながら考えるのは話題上の彼のこと。ジョルノ・ジョバァーナ。十五歳の少年は名前が事前に考えていたのを裏切って、酷く端正な面立ちをしていた。ルネサンス的とでもいうのか。当時の絵画だとか彫刻だとか……芸術的ななにがしかを想起させた。彼の声は不完全協和音程で、その姿はギャングなんかよりも……例えばそう、聖歌隊の方がずっと相応しかった。
「彼、見込みあるじゃない。頭の回転は早いし、度胸もある。誰かさんのいびりにも耐えてるしね、私よりよっぽど優秀。ま、ブチャラティが連れてきたんだもの、当然でしょうけどね」
だがそれは表層だけの話。本当にギャングなの?と疑問に思ったのは顔合わせの一瞬のみ。その後で彼が取った行動だとか物怖じしない様子だとか……そうしたものを見るにつけ、認識を改めざるを得なかった。彼はギャングに相応しくないくらいにギャング『らしかった』。
しかしその正直な称賛はアバッキオのお気に召さなかったらしい。
「ほーう……」
彼は嫌みったらしい響きで息を吐き、胡乱げな眼差しを名前に向けた。
「知らなかったな、まさかお前、年下趣味だったとは」
「いやだ、下世話なこと言うのね」
名前は一笑にふして、謳うように言葉を続けた。
「『肉欲とは原罪の痕跡なり』、『即ち恋とは穢らわしき信仰』、『神から遠ざかる破滅の道なり』……ってね」
言い終えると、アバッキオは鼻で笑う。何をバカな、と。
「そこまで信仰に厚いとは初耳だ」
「そうよ、私は清く正しいの。覚えておいてね」
「気が向いたらな」
とはいえそれで満足したらしい。アバッキオがそれ以上の追及をしてくることはなかった。
──はて、今のやり取りのどこに納得のいく要素があったのか。
恋愛の否定など冗談に過ぎないし、それは無論彼も承知しているだろう。本気に取られたら困る……ような気もする。いや、問題はないはずだが、名前としては冗談のうちに収めておいてほしいところ。
だからどうして彼の機嫌が若干──本当に若干だが──上向いたのか、さっぱりわからなかった。
「……そう言うあなたはいつになったら素直になるのかしら」
その横顔を見つめ、名前はぼやく。と、すかさず「は?」だか「あ?」だかといった響きを落とされたが、重ねて制止が及ぶこともない。
だから名前は気にせず「だって、」と自分よりもずっと高いところにある顔を仰ぎ見た。
「気にかけてるってことでしょう?ジョルノのこと……彼は若いし、ちょっとばかり……そう、無茶しがちだから……ね?そういうことでしょう?」
「だから違うって言ってるだろッ!!」
怒声はナポリ湾の潮風を裂いた。それはもうびりびりと痺れそうなほど。
しかし叫んだ後の彼の顔は決まり悪げで──名前はやっぱり、と笑ってしまった。