ジョルノ入団の日


 人波の中、ひとつ抜けた頭。陽光を刷いた髪は白銀。高貴なる薄紗。或いは朝日の中の雪原。無垢なる色合いに、名前は背後から駆け寄った。

「アバッキオ!」

 声をかけるのと肩を叩くのはほぼ同時。しかしアバッキオが驚いた様子はない。振り返った彼は名前を見ても平静を崩さず、「あぁ、」とだけ答えた。
 もしや足音で察知でもしたのだろうか?だとしたら凄い、と内心で拍手する。以前は警察官だったらしいというのは、この一年余りの時間の中で聞かされていたが──警官とはみんなこんな感じなのだろうか。
 ドラマみたいだと呑気に思いながら、ふと名前が目を留めたのは彼の耳許。それを覆うヘッドフォンの存在だった。

「何を聞いてるの?」

 その質問は名前にとって至極当然のものだった。いや、他の者にとってもきっとそうだろう。音楽を聴いている友人がいたらそこに興味を示す。当たり前の成り行きと言えた。
 しかしアバッキオは愛用のヘッドフォンを外すと、それを名前の耳に譲った。

「え?」

 ぱちりと瞬く間に離れていく手。指先が耳たぶを掠めたのも過去の話。
 冷えた膚の感触に気を取られる間もなく、名前の耳朶に囁きかけるのは歌声。澄み渡る青空。吹き抜ける風。天の階段を貫く声は名前にも覚えのある音色だった。

「『Va, pensiero』ね!」

 名前が目を輝かせると、アバッキオは鼻を鳴らした。でもそれは決して不快感を孕むものではなかった。むしろ常より眉間の皺も浅いくらいで、名前は何かいいことでもあったのかしらと思った。無論、言葉には出さなかったが。
 それもこれも『Va, pensiero』──『行け我が思いよ、黄金の翼にのって』という美しい調べを聴いていたせいだろうか。
 てっきり今日これから起こる出来事に不機嫌を加速させていることだろうと予想していたから、名前としては驚きを禁じ得ない。しかし悪いことではなかった。だから名前も疑問を頭から追い出して、言葉を続けた。

「相変わらず素敵な趣味ね!私も好きよ、」

 Va' pensiero, sull'ali dorate;
Va, ti posa sui clivi, sui colli,
Ove olezzano tepide e molli
L'aure dolci del suolo natal!──
 口ずさむと、アバッキオは肩を震わす。

「音、外れてんぞ」

「うそ!」

「ウソ」

「……もうっ!」

 酷い冗談に名前が胸元を叩いても彼の体はびくともしない。名前が感じるのは鍛え抜かれた体の頑丈さ。誠実ささえ窺い知れる感触に、内心感嘆の息を洩らす。
 彼がこれまで積み上げてきたもの。そうしたものに触れるたび、名前の中には名状しがたい感覚が生まれる。この時もそうだ。抗議のために声を上げたはずなのに、いつの間にかその怒りは溶かされてしまう。
 それはきっと、──彼の抱く冬のために。

「あなたがそんな態度取るなら私にだって考えがあるんですからね」

「ほう?」

 名前が腕組みをして威圧感を与えようとしても、なんのその。少しも怖くないといった顔で片眉を持ち上げるアバッキオ。その目には揶揄の光が瞬いていて、さてどんな具合に調理してやろうかなといった風に名前を見下ろしていた。
 だから名前は口を曲げて、「ブチャラティに言いつけるわ」と伝家の宝刀を持ち出した。

「『アバッキオは女子供をいたぶるのが趣味なんです』って。きっとブチャラティは悲しむでしょうね」

「オイやめろ!」

 すると途端に血相を変え、アバッキオは叫んだ。名前の物言いはなんとも子供っぽいもので、それが真実でないことくらい彼だって承知しているだろうに。
 それでも万が一があったら堪ったものじゃないといった様子で肩を掴んでくるものだから──名前は思わず吹き出してしまった。

「ウソ、嘘よ。そんなの私が言えるわけないじゃない」

 アバッキオはブチャラティのことを特別に思っている。いや、チームの皆、大なり小なりブチャラティに恩義を感じているが、アバッキオのそれは本当に切実なもののように名前には感じられた。
 だからこの冗談はあまり正しくはなかった。そう反省して、名前は「ごめんなさい」と彼の手を取った。

「でもあなたが元気そうでよかった」

「は?」

「てっきり『今日』は不機嫌になってるとばっかり思ってたから」

 名前が言うと、最初は怪訝な顔をしていたアバッキオも黙り込む。決まり悪げに逸らされた目。それは図星を表していた。
 アバッキオは大人だ。名前よりもずっと、世の中のことをよく知っている。世の中の悲しいこと、理不尽なこと。そうしたものを吸って生きてきたという顔をしていた。
 けれど今、名前の前で不服そうに唇をへの字に曲げている姿は、ただの少年のようだった。通りを歩いている健全な青年たちとなんの変わりもないように見えた。

「……なんだ、やっぱり納得してないのね」

「そういうんじゃねぇ」

 素早く飛んでくる否定の語。そう言ってから、彼は低い唸り声を喉奥で飼い殺した。
 「ただ、気に食わねぇだけだ」蛇のように這う音。声。言葉。歪んだ顔はその台詞が真実である何よりの証。
 納得しないも気に食わないも結局のところは同じことなのに。なのに最後の抵抗とばかりに弁解するのが──可愛らしくて。

「おい、何笑ってやがる……」

「えぇー、笑ってなんかないわ」

「その顔で言っても説得力ねぇんだよ!」

 はて?その顔とはどんな顔だろう。生憎と名前には見えないから反省のしようがない。

「でも、ほら、今日は笑顔の方がいいわ。『新入り』さんも緊張してるでしょうし」

「……『新入り』のことなんか知るかよ」

 そう、今日は特別な日──チームに新しい仲間が加わる日であった。
 本来ならば歓迎すべきこと。にも関わらずアバッキオの機嫌がよろしくないのは、ブチャラティからなんの相談もなかったからだろう。
 ブチャラティがひとりで考え、ひとりで決めた。それが彼らしくないのだとアバッキオは思うのだ。納得がいかないとはそういうわけで、それは決してブチャラティの判断を非難するものではなかった。
 しかしそうなると心に吹き溜まる霧は行き場がない。故にアバッキオはその苛立ちをまだ見ぬ『新入り』に向けているのだ。ブチャラティがそんな突拍子もないことを決めたのはきっとその『新入り』に原因があるのだと決めつけて。
 名前を出すことすら忌まわしいとばかりに吐き捨てる姿に、名前はやっぱり笑みを抑えられない。正直に心中を吐露してくれるのが嬉しい。

 ──そう思ってしまうのはどうしてだろう?

 答えはまだ出そうになかった。