初対面
海岸沿いで行き倒れていた名前を拾ったのはナランチャという少年だった。だから入院中の名前を見舞うのだって彼しかいなかった。それもそうだろう。名前が今イタリアの、それもナポリにいるだなんて知り合いの誰一人として知らないのだ。
そういった理由があったから、病室のドアがノックされた時も「珍しいわね」と思いながら──いつものナランチャだったらそんなことはしない──けれどなんの疑問もなかった。ドアの向こうにいるのは彼に違いない。そう思っていた。
「いらっしゃい、また来てくれたのね」とにこやかに言ってから──それが見知らぬ青年だというのに気づいた。
「すまない、邪魔をするな」
「え、ええ……あ、えっと、どうぞ……?」
切り揃えられた黒髪が印象的な青年だった。小さな輪郭の中には各パーツが寸分の狂いなく収められていた。瞳は深い色をしていて、思慮深い光が瞬いていた。
──どこからどう見ても覚えのない青年だ。
もしも過去に縁があったなら絶対に忘れることのない容貌だ。そんな彼がどうして今名前の前に立っているのだろうか。
「体調はどうだ?ここのメシは結構いけてるぞ。まぁそりゃあ病院ってのを抜きにしたらっていう前提ではあるがな」
面食らっていた名前を横目に、青年はベッド脇の椅子を引き寄せた。完全に腰を落ち着けるといった体勢だ。
そういえば彼の第一声は『邪魔をするな』だった。『すまない』と頭にはついていたが、言葉に訊ねる響きはなかった。断定で、つまり名前に拒否権はない。というより、想定にないって顔だった。
「ええ、そうね。お陰さまで。ちょっとは見映えよくなったんじゃないかしら」
「そうか?もう少し肉をつけた方がいい。まだ健康的とは言い難いな」
「そ、そう……?」
名前は目を白黒させながら、曖昧に笑った。
内心降り積もるのは疑問符。彼はいったい何者で、どういった用件があるのか。気になったが、「ん?」……何故だか、『それ』と言い出しにくい。
──なんだろうか、この感覚は。
怯えているのではない。恐れているわけでも、また。
これが彼が特別冷たい空気を纏っているというのなら理屈も通る。だがそういうのではない。そういうのではない、硬質さ。石膏、彫刻。どこか切り離された感覚。そう、……突き放されている、ような。
「……いえ、なんでも」
だからといって名前がそれを指摘することはない。なんといったって初対面だ。不躾。無作法。礼儀知らず。名前は小さく首を振った。
そうしていたって視線はずっと追いかけてくる。窺い見る眼差し。
探る、探られる、──そうだ、彼は私の『何を』知りたいのだろう?
──まさか、彼は、
「ところでこれからどうするつもりだ?」
「え?」
「ここの出身じゃあないんだろう?」
彼は、ふ、と──笑った。
「帰国の目処は立っているのか?もしそうじゃないなら……そうだな、そのくらいの手伝いはしてやろう。勿論、お前が望むのなら……の話だが」
笑った、それは。それは春の暖かさ……などではない。
それよりも昔、……冬の気配。芽吹きを願いながら、雪原に取り残された者。諦念。それは、見覚えのある色。何よりも近くにあったもの。
……鏡の向こうに映った、私自身。
「……お前はどうしたい?」
「私、は……」
答えなど決まっていた。名前には果たさねばならない任務がある。そうでなければもう二度と彼の友を名乗れない。だから答えはひとつ。
……なのに、言葉に詰まる。彼の眼差し。それは一切揺らがない。諦念は澄んだ湖面。清らかさすら纏う気配。であるからこそ、惑う。
──きっと彼は、私がここに残ることを望まない。
そう、察しがついたから。何故だか寂しげな雰囲気の彼に応えたかった。応えたかった、けれど。
「私、ここで働きたいわ」
でも、私の望みだって簡単に覆せるものじゃない。
「探している人がいるの、この国に。きっといるはずなのよ、だから私、諦めたくないの」
名前は挑むような心地で青年を見上げた。吸い込まれそうな双眸を見つめ返し、必死の思いで言葉を紡いだ。彼に認められなくては始まらない。そんな予感がした。
「勿論助けてもらった恩はちゃんと返すわ。そのためにもここで仕事を見つけたいの、それで、それから、私……」
「わかった」
「……え?」
名前の口を封じたのは青年。彼は名前の要領を得ない話を遮って、あっさりと頷いた。
……頷いて、みせたのだ。
「仕事が欲しいんだな?どんなのがいい?特技とかはあるか?」
「特技?ええっと、何かしら……、やかましいとはよく言われたんだけど」
「接客業か。サンタ・ルチア界隈やスパッカ・ナポリの辺りならリストランテが多いな。ピッツェリアがよければスペイン人地区も仕事に困らないだろう。あと中央駅周辺はホテルが多い、こっちはどうだ?」
「えっと、ホテル?ホテルよね……うーん、それよりはリストランテの方がいいかもしれないわ。ホテルって旅行客が来るのよね?私きっと質問に答えられないわ、流行にも疎いし……」
「ならリストランテだな、それも若者向けじゃないところ……。よし。当てはある、後で話をつけておこう」
矢継ぎ早に放たれる問い。質問に、名前は圧倒されながらなんとか答えていく。頭は半ば白。不意をつかれ、思考は停止寸前。あれよあれよという間に話が進み、頭が追いつかない。何がいったいどうなっているのか。
「どうした?」
目を瞬かせる名前とは対照的に、青年は無邪気ともいえる所作で僅かに首を傾けた。響きは柔らかで、冬の終わりに流れる小川のよう。清々しく、麗しい。
──そしてそれは、名前の『想像通り』でもあった。
「あなた、もしかして……」
ナランチャから聞かされていた通りに。彼が尊敬と憧憬を籠めて語るのと同じに。何も知らない女を相手にするには余りに親しげな──そう、近しい者を案ずるみたいな──眼差しは、名前がナランチャの話から想像していた彼のヒーロー像にピタリと合致していた。名前はまだ、彼のことをよく知らないというのに。
だというのに、いつの間にやら氷解していた彼の態度は、あまりに『彼』らしかった。先刻までの透徹した目が演技なのではと思うほどに──今の彼の方がずっと自然だった。
「あぁ、オレも君のことはナランチャからよく聞いている」
彼がきっと『あの』ブチャラティだ──名前に正しい治療を受けさせるよう取り計らってくれた命の恩人。そう理解すると、名前は途端に身を正した。
「あの、ありがとうございます、ええっと……」
「いや、気にしないでくれ。礼ならナランチャに。オレがしたのは大したことじゃあない」
彼はさらりと流して小さな微笑を刷いた。
たぶん彼は本当にそう思っているのだろう。人一人の命を救ったなんてわかっちゃいない。彼は名前がどれほどの恩義を感じているか察してすらいない。そのように思われて、名前は複雑な気持ちになった。それは彼の美徳であるのだろうが、同時にどうして年若い彼がそんな考えに至ったのだろうかとも思ってしまった。
「でもきっと迷惑をかけたわ。人一人、それもこんな立派な病室に入れておくなんて……本当に、なんと言っていいのか」
謝り倒す名前を、ブチャラティは鷹揚に手で制した。二度同じことは言わない。でもそれは言っているのと同じで、だから名前は口を噤むしかなかった。
この時名前は彼、ブチャラティがギャングの一員などとは夢にも思わなかった。
知ったのはこの後、ナランチャが口を滑らせたことが始まりであり、そしてパッショーネの『試験』に合格した名前がブチャラティから叱責されるのもまた──これより先の話であった。