原作前、縮まる距離
見慣れた街並み、見慣れた通り。角を曲がったところで、ふと目を奪うのは子供たちの影。通りに面した小さな広場。共同住宅の中庭には十人ほどの子供たちがいて、賑やかな笑い声を立てていた。
ウノ・ドゥエ・トレ・ステッラ……鬼役が振り返り、それ以外の者たちが動いただの動いてないだの言い合う。イタリアの子供なら誰もが知っている遊びを彼らはやっているらしかった。
しかしブチャラティの意識を奪ったのは、それが微笑ましい光景だったからというだけではない。子供たちに混じってひとり、見覚えのある横顔を見つけたからだった。
「……なにしてるんだ、名前」
「あっ、ブチャラティ……」
歩み寄る。と、途端に集まる視線。二十数個の目に一瞬たじろぎ、けれど咳払いをひとつ。
「ブチャラティだ」「お疲れさまブチャラティ」「ブチャラティも遊ぼうよ」……そういった無邪気な声に手を振ることで応え、ブチャラティは一人の少女の前に立つ。
名前──つい先日ブチャラティが身柄を預かることになった少女だ──まだ退院したばかりの彼女はしかしそれを感じさせることがない。雪のように白い膚は相変わらずだったが、頬には血が巡り、健康的に色づいている。
ブチャラティが買い与えた赤のワンピースの裾から覗くのは傷ひとつない脚。それに密かに安堵し、けれどブチャラティは難しい顔のまま。
「一人で出歩くなと言ったろう」
「出歩くって……庭に出ただけよ?」
困ったように笑う名前の周り。彼女を守るように固まった少年少女たち。彼らは真っ直ぐにブチャラティを見上げていた。
「それに一人じゃないよ!あたしたちがいるもん」
「そうだよ、ぼくらが名前を呼んだんだ」
「名前はちゃんと部屋にいたんだよ、でもつまんなそうだったから窓から声かけたの」
「ねぇブチャラティ、名前は悪くないんだよ」
口々に言うその眼差しは力強く、ブチャラティには己を責めているようにすら見えた。
──いったいいつの間に子供たちを手懐けたのか。
「……別に、悪いと言っているわけじゃあない」
膝を折り、子供たちと視線を合わせながらブチャラティは思う。名前にはなんだかよくわからないが『そういう』才能があるらしい。
思えば最初に彼女を拾ったナランチャからしてそうだ。以来彼ときたら何かと名前の世話を焼きたがったし、ブチャラティが彼女を引き取ると言った時も些か不満げであった。それにフーゴとも。初めは彼女を疑っていた彼も見舞いを口実に会ううち絆されてしまったらしく、今では生来の面倒見のよさを発揮していた。アバッキオだって警戒心たっぷりだったくせ、憎まれ口を叩きながらも気安い友人関係のようなものを築いていた。
「ただ心配しただけだ、名前はまだここのことをよく知らないからな……」
頭を撫でてやると、子供たちはパッと顔を輝かす。よかった、ブチャラティ怒ってないって──言われた名前は頷くが、ブチャラティは己を窺い見る視線を感じ取っていた。
「あの、……ごめんなさい」
ひっそりと。耳打つ彼女に合わせ、ブチャラティはそっと首を振る。心配していた、それもまた嘘ではない。ただ……考えるべきことは他にもあった。それだけの話だ。
──名前には何か、秘密がある。
時々物言いたげに見つめる視線、或いは物憂げな眼差しに。不安の影が過る瞳は何より雄弁に彼女の心中を語っていた。
それでも受け入れると決めたのは彼女があまりに頑なで、危うげであったからだ。パッショーネの入団試験に合格した。そう伝えてきた彼女の引き結ばれた唇。緊張に引き攣る膚。それでも意志は固く、──ブチャラティには彼女の死が見えた。今ここで突き放したら、きっと彼女は近い将来組織に消されるだろう。そんな予感があった。そしてそれは、──ブチャラティにも覚えのある眼差しだった。
──だからまだ、見極めなければならない。
そしてそれは名前が知る必要のないことだ。
首を振ったブチャラティは「気にするな」と笑った。
「一人で退屈させてたのはオレの責任でもある」
「あ、あの……退屈してたっていうのはこの子たちの感覚で……私は別に、」
名前は慌てた様子で首を横に振った。そうすると緩く波打つ金糸も一緒になってさざめき立つ。ついでに顔の前に伸ばされた両手も。否定のために勢いよく動かされ、手首が痛みやしないかとブチャラティは思った。
「そ、そうだ!カンノーロを作ったの。よければブチャラティ、あなたも……」
「ああ、後でいただこう」
頷くと、子供たちの一人に裾を引かれた。
聞けば「名前のカンノーロ美味しかったよ!」とのこと。……なるほど、子供には有効な手だ。名前にその気はなくとも彼らが慕う理由のひとつにはなったろう。
「さぁ、もういいか?まだ無理をするには早い。遊びは終わりだ」
「……そうね、」
名残惜しげな子供たちに手を振り、ブチャラティは名前の手を引いた。彼女は特に抵抗しなかった。ただ「ごめんね」「ありがとう」と子供たちに言った。彼らの姿が見えなくなるまで、何度も振り返りつつ。
そうしてやがて。
「……ごめんなさい」
アパートのロビーを抜ける頃。ともすれば足音にかき消されそうなか細い謝罪が名前の口から零れた。
ブチャラティは彼女を見た。半歩ほど後ろを着いてくる彼女を。気まずげに逸らされた目を。そうしたものを認め、速度を落とした。
「それはもう聞いた。それに……本当に、責めてるわけじゃないんだ」
自分はこんなに不器用だったか。そう傍らで思うほど言葉が出てこない。別に彼女の顔を曇らせたいわけじゃないのに。なのに何故だか上手くいかない。
「ただお前は少し……無茶をするきらいがある。そういうのが気にかかっただけだ」
エレベーターの前に立つ。今いるのは最上階。対してブチャラティたちがいるのはゼロ階。明かりが動くのを眺めていると、名前はぽつりと呟く。
「……優しいのね」
目を落とすと交わる視線。見上げる目は菫色。淡いはずのそれが今は暗い。落ちた影が重なり合い、その深層まではわからなかった。
「あなたは優しいわ。私にはもう十分すぎるほど……本当に、感謝してるの。だからその……つまり、ね」
ただ、彼女の微笑がどこか苦く、痛々しいものであるのだけは見て取ることができた。
「自分のことは自分で責任持つわ。私を拾ったからってあなたに何もかも背負わせるつもりはないから……だから……」
言い淀み、視線をさ迷わせ。手元のバスケットを探り、名前はまた顔を上げる。
「ね、私、もうすっかり元気よ。カンノーロを焼けるくらいには」
その笑顔は明るく晴れ晴れとしたものだった。この春の日の日差しのように。雲ひとつない青空のように。……そう、何も知らなければ。それくらいに完璧で、出来すぎた笑顔だった。
名前は笑いながらバスケットに仕舞われていたカンノーロを差し出していた。紙で包まれたカンノーロ。それをわざわざ半分に割ってみせ、なのに名前は『何も気にしてない』って風でブチャラティを見つめた。
──そこまでされて、揺らがないでいられるのはよほどの冷血漢だ。
「……なんだ、半分しかくれないのか」
軽やかな音を立ててエレベーターの扉が開く。
でもそちらを見ることはなかった。ブチャラティも名前も。ブチャラティは彼女の手からカンノーロを摘まみ上げ、「うん、確かに美味いな」と笑いかけていたし、名前は名前でそんなブチャラティに目を見開いていた。
「……食べてくれるの?」
「貰うと言ったろう?」
結局何もかも彼女には見透かされていたというわけだ。ブチャラティが見極めているということも、それを隠していることすらも。──気づいた上で、それでも名前はブチャラティに笑顔を見せたのだ。
そんな彼女だったが、恐らくは強がりも多分に含まれていたのだろう。ブチャラティが顎を引くと、パッと目を輝かせた。……先刻の子供たちのように、あまりに無邪気に。心底から嬉しいのだと滲ませる彼女に、温かな感情が込み上げる。
「あ、あの!ブチャラティは何が好き?私、頑張るわ……教えて、あなたの好きなもの」
「ああ、だからお前もやりたいことがあれば言ってくれ。……子供たちの遊びでもな」
「そっ、それは……もう!揶揄わないで!」
もう一度エレベーターのボタンを押し、今度こそ乗り込む。二人して笑いながら。